Column011 :: Ishikawa Hiroki's HP

ローマの屋根裏部屋でプロについて語りあう(ローマ、イタリア)


 10年ほど前、ポルトガルに滞在していた私は、論文で使う史料を見るため、イタリアのローマ国立中央図書館を訪れることになった。

 事前に宿の情報を十分収集できなかったため、私は航空券だけを手にしてローマに向かった。空港から列車に乗ってローマの玄関口であるローマ・テルミニ駅に着くと、私は早速宿探しを始めた。安宿が上階に入っているある建物に入ろうとしたところ、1人の女性に声をかけられた。私が宿を探していることを知ると、彼女は近くでイタリア料理店を経営している知り合いの日本人女性のもとに連れて行ってくれた。その女性は日本から修行に来る料理人やギャルソンのために屋根裏部屋を提供していた。突然訪れた私に少々驚いた様子であったが、事情を話すと快く私に部屋を貸してくれることになった。

 屋根裏部屋といっても間仕切りをした寝室は4つあり、台所やシャワールームもあった。古い建物であったせいか鍵がかかりにくかったことは少々厄介であったが、周囲の宿に比べて安値であったうえ、自炊ができ、ローマ国立中央図書館に徒歩10分ほどの立地で、とても快適であった。オーナーのはからいで、イタリア人シェフたちがつくるまかない料理を安い値段で食べられることも、料理好きの私にとっては魅力的であった。

 同居人は2人で、1人はオーナーのレストランでギャルソン修業をしている男性、もう1人はローマのオペラ座に指揮の勉強に来ていた東京芸術大学指揮科の大学院生であった。2人とも好人物で、私を快く迎えてくれた。指揮科の大学院生と私の地元は隣りあっており、しかも私が彼の地元にアルバイトに、彼が私の地元にレッスンに通っていることが分った。お互い奇遇に驚きつつ、ローマで千葉県のローカルな話題で盛り上がっていることを笑いあった。

 ある晩その指揮科の大学院生と話しているとプロ野球の話しになり、そこから「プロとはなにか」という話題になった。彼の話によれば、指揮者というものはいかに正確に作曲者の意図を汲み取り、それを再現できるかという点が最も重要視され、独創的な指揮法によって一世を風靡してもそれは真の評価の対象にはならないのだという。オペラ歌手も同様で、人々に強烈な印象を与え、長らく語り継がれる歌手よりも、より長く基本に忠実に歌い続ける歌手の方が評価されるという。

 「歴史学研究でも同じで、晩年まで着実に研究を続け、後世に残るような業績を残した研究者が最も評価されます。野球でいえば、大野豊投手のような選手が最も評価されるのと同じですね」と、彼がプロ野球の広島カープのファンであることを聞いていた私が、43歳まで現役を続けた広島カープの往年の大投手の名をあげて話すと、彼は満足そうにうなずいた。

 そう言いつつ私には割り切れないものがあった。私がファンであるヤクルトスワローズは、野村克也監督のもとで1990年代に黄金時代を築いた。当時は伊藤智仁、川崎憲次郎、石井一久といった投手が活躍し、誰をエースと呼べばよいのか迷うほどであった。しかし私にとってヤクルトのエースと言えば、ヤクルトが14年ぶりに進出した1992年の日本シリーズにおいて3試合430球を投げ抜いた岡林洋一投手であった。

 この日本シリーズにおいて、ヤクルトは日本一の栄冠を得ることができなかったものの、全盛期の西武ライオンズを相手に最後まで敢闘し、見る者に感動を与えた。失意の中で浪人生活を送っていた私もその1人であった。私は岡林投手の力投に大いに励まされ、全力を尽くしている者のみが放つ輝きがあることを教えられた。それとともに私は大した能力も無い自分がそれを出し惜しみしていたことを恥じた

 しかしこのシーズンの八面六臂の活躍は岡林投手の選手寿命を縮めてしまった。岡林投手はプロ生活10年間で175試合に登板し、2000年に32歳で現役を引退した。通算成績は53勝39敗12セーブであった。

 「確かに故障せずに長年活躍するということはプロ野球選手の理想の姿ですよね。でも、あなたにとってエースは誰ですかと問われれば、私は1992年の日本シリーズで力投し、悲運のエースと呼ばれた岡林洋一投手の名前を生涯挙げるでしょう」と正直に彼に言うと、彼は困ったような表情を見せた。

 思い返してみれば、彼はプロフェッショナルというものを私よりもはるかに深く理解していた。しかしプロフェッショナリズムに徹して生きることも、鮮烈な輝きを放って人々の記憶に残ることも、選ばれた人間しか手中にできない栄誉であることを彼も感じていたのではないかと思う。

 ローマの屋根裏部屋で「プロとは何か」について語りあってから10年近くが経つ。指揮科の彼はプロフェッショナルとして生きていることであろう。はたして私はプロフェッショナルの道を歩んでいると言えるだろうか……

2011年9月8日



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スポーツ雑誌Sports Graphic Numberの1992年日本シリーズ特集号

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