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島原そうめんを食べながら歴史を噛みしめる(南島原、日本)


 「島原そうめん」と聞いても、「島原でそうめんを作っているの?」と不思議に思われる方が多いであろう。そうめんと言えば、奈良県の三輪そうめんと兵庫県の揖保乃糸が有名であり、島原そうめんは知名度の点でかなり劣っているため仕方ない。しかしその味わいは三輪そうめんにも揖保乃糸にもまったくひけをとらず、その繊細な食感は特に暑い夏には格別である。

 島原でそうめん作りが始まったのは江戸時代であった。そしてそこには日本史上の一大事件である島原の乱が大きく関わっている。

 ザビエルに始まるキリスト教の布教は、特に九州において成果を挙げ、多くの人びとが改宗してキリシタンとなった。しかし豊臣政権、そして江戸幕府のもとで日増しに弾圧は厳しくなり、多くのキリシタンが棄教に追い込まれた。

 かつてキリシタン大名有馬晴信、小西行長の領地であり、改宗者が続出した天草・島原においても、大半の人びとは棄教した。しかし新たな領主の苛政などから、寛永14年(1637年)突如としてキリシタンに立ち戻ることを宣言する人びとが現れ、取り締まろうとした島原藩の代官を殺害した。ここに島原の乱が始まった。

 天草四郎時貞を総大将とする一揆勢は、緒戦では島原城を攻めるなど攻勢に出たものの、討伐軍の到来を知って島原半島南部の廃城・原城に立てこもった。幕府は12万の大軍でこれを包囲し、最終的に城内にいた約3万7千人の人びとを皆殺しにした。

 この乱で南島原では多くの農民が命を失い、荒野が広がった。そのため幕府はこの地に小豆島などから農民を多数移住させた。彼らがそうめん作りを島原にもたらしたと伝えられている。

 現在の南島原は、心洗われるおだやかな海が眼前に広がる風光明媚な土地である。原城址を訪れても、かつてここで激戦が繰り広げられ、3万7千人もの人びとが命を落としたとはとうてい信じられない。しかしこの地は確かに多くの人びとがキリスト教を受け入れて宣教師たちを驚喜させた地であり、その後江戸幕府による過酷な弾圧を経て、日本中を震撼させた大事件の舞台となった地なのである。

 東京に戻っても、最寄りの店で手に入れた島原そうめんをゆでて食べながら、南島原のあのおだやかさとその歴史の苛烈さの落差についてとりとめもなく考えてしまう。そしてエチオピアと南島原がローマ・カトリックの布教を同時代に経験したことの不思議さ、そして両地がたどった運命の違いに思いを馳せる。

 史料や研究書を読んでも、現地を訪れても、なかなか心の中の疑問は解けない。しかしそれでもなお史料や研究書を読み、現地を訪れて、そのもどかしさを噛みしめたいと思ってしまう。

2011年8月7日



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原城内天草四郎の館の跡地から有明海を望む 


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