Column009 :: Ishikawa Hiroki's HP

ザビエルの遺志を継いで(ゴルゴラ、エチオピア)


 エチオピア最大の湖であるタナ湖のほとりにゴルゴラという村がある。その日私はゴルゴラにあるイエズス会の教会の廃墟を訪れ、エチオピアで布教活動に従事したイエズス会士たちに思いを馳せていた。

 フランシスコ・ザビエルらとともにイグナチオ・デ・ロヨラがイエズス会を立ち上げたのは1534年のことであった。当時プロテスタントの台頭によって劣勢に陥っていたローマ・カトリックの復興のため、イエズス会士たちはヨーロッパ以外の地における教勢の拡大を試みた。先陣を切ってインドに赴いたザビエルは、当時ポルトガル人によって「発見」されたばかりの日本に赴き、この地が有望な布教地であることを報告した。ザビエル自身は程なく病没したものの、その後多くの若者たちが彼の遺志を継いで世界各地における布教に身を投じた。ザビエルに始まるイエズス会日本布教が華々しく発展したこと、そして過酷な弾圧によって多くの殉教者と「隠れキリシタン」を生み出したことはよく知られているところである。

 日本ではまったく知られていないことであるが、エチオピア王国においてもイエズス会は日本布教とほぼ同じ時期に布教を開始した。当初イエズス会はキリスト教徒が住むエチオピア王国を日本と並ぶ布教に有望な地と見なしていた。しかしエチオピアのキリスト教徒たちは1000年以上の伝統を誇る独自のキリスト教を信仰しており、布教活動は難航した。エチオピア布教の不振を伝え聞いたローマ教皇が、イエズス会士たちに日本あるいは中国に向かうよう指示を出すほどであった。

 17世紀に入ると事態は一時好転した。当時のエチオピア王国の君主ススネヨス(在位1607~1632年)がローマ・カトリックに改宗し、王国内にそれを広めようとしたのである。しかし王国内ではしだいにローマ・カトリックへの反発が高まり、ススネヨスはこの宗教政策の撤回を余儀なくされた。ススネヨスに代わって即位した息子のファシラダス(在位1632~1667年)はイエズス会士の大半を追放するとともに、ローマ・カトリックに改宗した人々を弾圧した。1640年には潜伏していた最後のイエズス会士が逮捕・処刑され、イエズス会エチオピア布教は失敗に終わる。

 エチオピアで布教活動にあたったイエズス会士の大半はポルトガル出身者であった。彼らはイエズス会に入会して修練を積んだ後、インドのポルトガル領の中心地であったゴアを経由して紅海沿岸の港に上陸した。灼熱の低地を進み、さらに険しい山道を登って標高1500m以上の高原にたどりついた彼らは、エチオピア王国各地に散って布教活動に従事した。ある者はエチオピアで没し、ある者はインドに追放され、またある者はエチオピアで殉教した。

 教会の廃墟の一角に腰をおろして、私は訪れたことがあるエチオピア、ポルトガル、イタリア、インド、日本各地のイエズス会に関わりの深い土地に思いを馳せた。交通手段が発展していない16・17世紀に、イエズス会士たちをポルトガルからはるばるエチオピアや日本に赴かせたものは何だったのか。「信仰の力であろう」と言うことはできても、その一言で片付けることをためらわせる何かがそこにはある。

 ゴルゴラにイエズス会士たちが築いた教会は崩れ落ちて廃墟と化し、ここが17世紀前半にエチオピアにおけるイエズス会布教の中心地であったことを偲ばせるのは、わずかに残る壁面の彫刻のみである。タナ湖の雄大な風景を背に佇むこの廃墟に、歴史の残酷さとイエズス会士たちの矜持を感じつつ、私はゴルゴラを後にした。

2011年7月26日



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ゴルゴラにあるイエズス会の教会の廃墟 

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