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T. 忘れられがちな〈辺境〉の過去といまをめぐる索漠とした想いからか、作家がそのつどの聴き手にむかい投げだしてみせたふたつのことばがある。ほんの数カ月の間をおき文字となったことばだが、語り手にとりそのあいだには、半世紀の時、半世紀の生がきざまれている。 私はあのとき、インドシナ行きを避けることだってできたのです。でも、独立運動の同志だった作家ベルナール・ダディエが、私の従軍をつよくすすめてきました。ダディエら同志は、まもなく象牙海岸もアルジェリアのような解放闘争に突入するものと見こんでいたので、反植民地闘争の技術をインドシナで実地に習得してくるよう、私にすすめたのです(1)。 Q:11才の児童の言葉づかいを採り入れたことが、あなたの書き方にまで影響をおよぼしています。これまでのあなたの作品に力をあたえてきた詩法というものが、そのせいでいささか損なわれているのです。この点をめぐるご選択の正しさを、あなたはどのように説明なさいますか? A:叙述から詩の密度が失われているとの印象をお持ちだとすれば、それは少年兵の生きる現実に、詩情をうながすものなど何ひとつ存在しないからですよ(2)。 1946年、ほかならぬバマコでRDAの生誕にたちあい放校処分をうける彼。51年、仏軍伍長の身でRDAデモ鎮圧の指令にそむき、インドシナの前線に送致される彼。留学先でFEANFに近づいたためか、冷戦構造の〈西〉側に座を占めつつあったかつての同志ウフエ=ボワニの手で帰国後63年に投獄され、国を追われる彼。『独立の太陽』刊行後にふたたび国を追われながらも、闘うグリオguerrier griotの異名をもとに〈独立〉への怒りをなおも書き継いでいく彼。そうしたいくつもの彼のうちに織りこめられ、やがてはそれらをつなぎとめてもいった〈作家アマドゥ・クルマ〉としての信条が、アフリカの過去と現在を証言するためにこそ小説を書く、というものだったことは、ひろく知られている。 しかしだとすれば、20世紀の棹尾をかざる秀作としてメディシスをのぞくフランスの主要文学賞(ゴンクール、ルノドー、フェミナ、アンテラリエ)で最終選考まで勝ちのこり、ルノドー、高校生のゴンクールほか、数多の賞にかがやいた最新作『アラーの神にもいわれはない』(3)は、この証言者の生にいかなる声をつけくわえたのだろう。すでに刊行以前から「私の執筆計画の外側に位置づけられる」(4)ものと予告されていたこの作品にあっては、〈外側〉のいかなる声がほかならぬ作家を名宛人として、〈詩情をうながすものなど何ひとつない〉地獄の光景を綴りはじめようとしていたのか。 U. 「ジブチのこどもたちへ−きみたちの求めに応えてこの書物は記された」。作品冒頭にかかげられたこの献辞に、作家はある出会いをよみがえらせる。 私は以前ジブチで、7才から10才の子どもたちを相手に講演をしたことがあります。それは移民の子どもたちでした。部族戦争にとりつかれた隣国ソマリアで、自分の父親も母親もいまだ戦闘にあけくれている、そんな境遇にある子たちだったのです。私の講演内容を、その子たちはちっとも理解していませんでした。ただ、私が「えらい作家である」ことだけは、ひとから聞かされていたのでしょう。そのうちのひとりふたりが、勇気をだしてこんなふうに私に声をかけてきたのです。「クルマさん。クルマさんって、えらい作家のひとなんでしょ。だったら部族戦争のお話もしてください。ぼくらの国では、部族戦争のせいでみんなすごくたいへんなめにあってるんだ。クルマさんがその話をしてくれたら、戦争だって減ってくし、ぼくたちみたいな子どもが父さん母さんとはなればなれになったり、自分の国から出ていく必要もなくなるんだから」。それで私は、部族戦争について話すことを子どもたちに約束したというわけなのです (A. Kourouma, 真島宛私信より) 実在する子どもたちへの献辞につづき、架空の元少年兵ビライマによる西アフリカ内戦の物語がやにわに幕をあける。ギニア国内の村で生まれたとおぼしきこのマリンケの少年は、早くに父を亡くし、身体に障害をもつ母のおぞましい風評にも絶望したあげく「通りの子」に身を落としていた。やがてその母もうしなう少年は、あらたな庇護者「マーンおばさん」のゆくえを追い「部族戦争のリベリア」へと渡っていく。行く先々の土地で、少年はゲリラ組織に組みこまれていく。二度めに国境をこえたシエラレオネでも、彼には少年兵となる道しかのこされていない。「くそったれでいまいましいぼくの人生」−それを「ちんぴらみたいな口っぷり」で、何かに憑かれたかのごとく、少年が記憶の戦場から語りつづける。 V. 重厚な叙事詩の書き手としてこれまで知られてきた作家クルマは、架空の元少年兵に真向かう日々のなかで、〈詩の密度〉を欠いたいかなる作風を選びとらねばならなかったのか。いや、むしろこう問うべきであろう。ひとはいったいどうすれば、フィクションの場にとどまりつつも現実の戦争を証言したことになるのか(5)。少年兵の生を生きもせずにその代弁者たらんとする作家は、たとえばジブチの子どもたちとのあの約束を、語の十全な意味においていかにまっとうしたことになるのかと。 リベリア・シエラレオネの内戦をめぐる事実関係がほぼ知られていないこの国の読者にはそれが危うさにもなってしまうのだが、少年の語りにはチャールズ・テイラー、フォディ・サンコー、さらにウフエ=ボワニ、オバサンジョなど、内戦のゲリラ指導者や関連国の国家元首の名が実名で登場する反面、おなじ事実関係として語られることがらの一部がじつは虚構であり、逆におよそ現実ばなれした残酷のように語られる事件がじつは史実に依拠しているという、かなり複雑なしかけが巧まれている。しかも現実におきた戦争の描写だというのに、少年の語りでは型どおりの単語、文、章句がいくども反復されるうえ、あれこれの悲惨なできごとさえもが、物語の進行にそって悪無限のごとくみずからを反復していく。クーデタが反復する。破綻国家が反復する。戦闘が反復する。殺戮が反復する。拷問が反復する。和平交渉が反復する。そしてなによりその間にも死が、自分のかたわらで昨日までたしかに生きていた少年兵−と少女兵−の死が反復する。冷戦後の〈辺境〉に確たる生の痕跡さえとどめずに亡くなった幼い戦友の来歴を読み手の記憶に定着させようと(6)、少年が「追悼の辞oraison fun 事実と虚構との不分明な界面で、だれの目にも明らかなしかたで幾重にも反復が積まれていく語りの形象、それは叙事詩でないとすればたとえば寓話の形象ではないだろうか。とはいえそれは、エッセンシャリスティックな視線のもとで「アフリカ文学に特有の口承文芸の伝統」としてテクストに探しだされる非−歴史的な反復の修辞をさすのでもなければ、登場人物の語りに「社会の無意識」としての普遍性をあたえようとする書き手側の欲望から成った「寓話」の配置をさしているわけですらなく(7)、むしろ近代共和政体そのものに内蔵された暴力、たとえば〈内戦=市民の戦争guerre civile〉がもたらしてしまう暴力のとほうもなさを、反復の奥行きを通じてかろうじて読者に暗示していくための、その意味ではまぎれもなく近代へと水路づけられた寓話であるだろう。内戦の〈推定犠牲者数〉として報じられる、にわかには想像しがたい死の数値が、それをただ小賢しく消費していればよい部外者向けの「内戦の知識」としてあるわけではなく、またその数値を知ったことが「内戦の理解」になるわけでも断じてないことを、幼い匿名者たちのとほうもない葬列の闇の深さとともに、読者に気づかせていくための文学的方途、すなわち寓話として。 W. 戦場の記憶をたぐるビライマの語りでしきりと反復される単語のひとつに、マリンケの罵倒語「ニャモゴデンgnamokod 今回あらたにつけ加えた『アラーの神にもいわれはない』の「日本語版あとがき」で、クルマはアフリカにおける冷戦体制の終焉を1994年と見さだめている。マンデラ政権の樹立をさすのでなければ、おそらくそれは「冷戦を中心から支えているような人物」(8)と作家がつねづね評してきた、宿敵ウフエ=ボワニの死(1993年12月)を暗示しているにちがいない。だが、独裁者が去った〈冷戦後〉のコートディヴォワールで、作家のいう〈冷戦〉もまた消え去ったといえるだろうか。それをしも〈冷戦後〉だというのなら、大統領被選挙資格の〈国籍〉条項を口実とした〈独裁者〉の子どもたちによる権力闘争が、たとえばなぜ、フランス極右・国民戦線のそれを忠実に模した「コートディヴォワールをコートディヴォワール人に! La C コートディヴォワール内戦勃発のほぼ1年前、政権側が企画した「国民和解フォーラム」の議長候補に一時指名されたアマドゥ・クルマは、ウフエ=ボワニ死後の母国になおも「ナチズムのヴィールス」が潜んでいることを憂慮していた(9)。偽りの〈独立〉に盛られた癒しがたい毒の後遺症で、西アフリカの地はアラーの神にさえ見捨てられようとしている。架空の元少年兵が住まう冷戦後の寓話とはいまだ冷戦の寓話そのものであり、冷戦後の闇はそのまま冷戦の闇へとつらなっている。その陰惨をにぶく照らしだす光として『独立の太陽』でいくどとなく登場していた太陽のイマージュが、ビライマ少年の住まう寓話の場所はおろか、きょうもまた作家の母国の空、〈真の国民〉の座をあらそう〈冷戦後〉の戦場の空に傲然と昇ろうとしていることだろう−「くそいまいましいお日さまのやつが、この呪われた部族戦争の国、リベリアの上にちょうど昇ろうとして…」(10)。 西アフリカ諸国の独立前夜、おのれの目撃した「アフリカの現実」を記録にのこす欲求をおぼえたアマドゥ・クルマは、アフリカに関する当時の社会学や民族誌学の文献をひもときその内容に深い失望をおぼえた結果、みずからのいう「生きた社会学sociologie vivante」の実践を可能にするもうひとつの選択肢、すなわち小説の構想にむかったのだと後年述懐している。くそいまいましい太陽がきょうもまた空にのぼりつめる土地と時代を前に、かつての死せる民族誌学は、作家がみごとに達成してみせたこの生ける社会学の物語からいまや何ごとかを学びとる準備がはたしてできているのだろうか。 脚注 1.C. Ayad et E. Loret, "En Afrique , si
on met en avant l'ethnie, c'est le massacre (entretiens avec A. Kourouma)", Lib 2.H. Libong, " Dans l'ombre des guerres
tribales (entretiens
avec A. Kourouma)",
L'Humanit 3.A. Kourouma, Allah n'est pas oblig 4.M. Fenoli, "Kourouma le colossal
(entretiens avec A. Kourouma)" , http://www.culture-developpement.asso.fr/0_home/kourouma.htm.
, 1999. 5.川村湊+成田龍一ほか『戦争はどのように語られてきたのか』朝日新聞社, 1999年。とりわけ同書中の井伏鱒二論参照 6.アマドゥ・クルマをめぐる、あるいはルワンダ大量虐殺事件へのアフリカ文学者の対応をめぐる同種の問題系については、本誌前号所収の二論考参照。元木淳子「だれが歴史を語るのか−アマドゥ・クルマ『モネ、侮辱と挑戦』を読む」。砂野幸稔「ルワンダ−記憶の義務として書く」。 7.澤田直「マグレブのフランス語文学」三浦信孝 編『多言語主義とは何か』藤原書店所収, 1997年. 8.A. Armel , “Je suis toujours un opposant (entretiens avce A.
Kourouma)”, Magazine litt 9.A. Kourouma, "Il faut plus que la r 10.A . Kourouma , Allah n'est pas oblig |
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