IV. リベリア内戦史資料


3-3. その他

*本資料の略年譜もしくは人名注記に登場する用語に限定した。

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A. 内戦以前
アメリコ=ライベリアン名家(Americo-Liberian Dynasties)
19世紀後半以来、リベリア国内の行政と経済を一手に支配していたアメリコ=ライベリアンの名門の家系。代表的な名家としては、BARCLAY家、CASSELL家、COLEMAN家、COOPER家、DENNIS家、DUNBAR家、HARMON家、HOWARD家、JOHNSON家、KING家、SHERMAN家、TUBMAN家などがある。とくに今世紀前半までは、およそ120家といわれるこれら名家のあいだで、大統領ポストをはじめ閣僚・国会議員・裁判所判事・各国駐在大使・中央銀行総裁などの要職ポストが配分されていた。
コンゴ(Congoes)
アメリコ=ライベリアン出身者に対する俗称・蔑称。19世紀後半の奴隷密貿易期にモンロヴィア入植地へ送致された船上奪還奴隷が”コンゴ”と呼ばれたことに由来する。リベリア共和国を建設したアメリコ=ライベリアンたちは、現地住民を”Aborigines/Country People/Natives/Tribesmen”などの蔑称で呼び、自らを”Citizens/Civilized/Settlers”などと呼んできた。しかし現地住民からみれば、彼れは伝来の土地を盗み取ってまんまと入植してきた黒いよそ者”コンゴ”にほかならなかった。
TWP(真正ホイッグ党:True Whig Party)
1878年に一党独裁が確立して以来、リベリアのアメリコ=ライベリアン支配体制を体現してきた政党。しかしTWPの一党支配は、ドーによる1980年の軍部クーデタであっけなく崩壊した。ドー政権期には党活動が非合法化された。
タブマン期
リベリア共和国第19代大統領タブマン(William Vacanarat Shadrach TUBMAN)の政権期(1944-71年)。国内格差の穏健主義的な是正をはかる「統一化政策」など、戦後リベリアにおけるTWP体制の基礎が、このタブマン期に確立した。
トルバート期
リベリア共和国第20代大統領トルバート(William Richard TOLBERT, Jr)の政権期(1971-80年)。トルバートは、タブマンが確立した戦後TWP体制、とりわけ国内行政の基礎を忠実に継承した。
ULAA(南北アメリカ在住リベリア人協会同盟:Union of Liberian Associations in the Americas)
1974年、留学中の学生を中心に結成されたアメリカ在留リベリア人の団体。当初の目的はメンバー間の親睦と交流にあったが、トルバート政権末期には、リベリアの国内改革にむけた方策をうちだす政治団体へ変質していった。この時期の同盟メンバーには、テイラーをはじめウォエウィユ、ドゥオプなど、後のNPFL創設メンバーが多く名を連ねていた。
国立リベリア銀行(The National Bank of Liberia)
リベリア中央銀行の正式名称。
マノ川同盟(MRU:Mano River Union)
1973年、域内自由貿易の推進をかかげて、リベリア・シエラレオネの二国間で結成された地域経済同盟。80年にはギニアが加入し、三国間の同盟となった。
MOJA(アフリカ正義希求運動:Movement for Justice in Africa)
1973年、トバ・ナー・ティポテー(Togba Nah TIPOTEH)の主宰でモンロヴィア在住の知識人を中心に結成された左翼系の人権擁護団体。組織の前身は、71年に結成されたリベリアの貧困救済組織”Susukuu”。トルバート政権末期には、ソーヤー、マシューズ(Bacchus MATTHEWS)、ファーンブレー(Henry FAHNBULLEH, Jr)らを中心に政治色が鮮明となり、79年4月の大規模な米価引き下げ要求デモを先導した。
PRC(人民救済評議会:People's Redemption Council)
ドー政権期前半(軍政期)の国家最高機関。メンバーは、1980年に軍部クーデタを決行した陸軍下士官・兵士17名からなる。PRC議長ドーをはじめ、その大半は村落地域のクラン族出身者だった。民政移管を前にした84年7月に解散し、ドー政権期後半の与党NPFLとして改組された。

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B. 内戦期
NPFL政府(NPFL Government)
テイラーが、1990年から組織してきたNPFL内部の閣僚組織。反ナイジェリア感情をいだくテイラーは、ECOWAS主導下で発足したIGNUを、リベリアの合法政権とは認めなかった。
テイラーランド(taylorland)
テイラーが国内のNPFL掌握地を言う際に好んで用いた表現。NPFLが国土の大半を掌握している現実をとくに強調したいときには、ECOMOG管轄地モンロヴィアにある”モンロヴィア政府 Monrovian Government”との対照で、自軍掌握地を”大リベリア Greater Liberia”と呼ぶこともあった。
ELBC
バルンガ市のNPFL本部で1991年に開設されたラジオ局。同名の政府系ラジオ局(タブマン期の60年に開局)は、首都モンロヴィアでECOMOGの管轄下にあった。
SBU(Small Boy Unit)
NPFL軍事機構の底辺を構成する少年兵の組織。内戦初期のニンバ州で戦争孤児となった児童に、NPFL兵士がゲリラ訓練をほどこしたことから始まった。以後は、他の武装勢力も類似の少年兵グループを組織するようになった。AK-47を肩にかけたドラッグ漬けの少年兵の姿は、現地の内戦報道を通じて国際社会に大きな衝撃をあたえた。
西アフリカの問題は、西アフリカでの解決を必要としている
(West African problem, requiring a West African solution)
リベリア内戦に対するアメリカ側の基本姿勢をしめすことば。国連安保理もこれと同様の姿勢でリベリア問題に臨んだため、和平回復の責務が地域経済共同体ECOWASの双肩に重くのしかかることになった。
リバティー・ダラー(Liberty dollars)
1992年1月、NPFLに経済的な打撃をあたえるためIGNUが首都で発行した新紙幣の通称。テイラーはその対抗策として、内陸の自軍掌握地における新紙幣の使用を禁止した。そのため国内では、ECOMOG管轄地のモンロヴィア市内でのみ新紙幣が通用し、テイラーランドでは旧紙幣、通称”ジェイジェイ”(JJ's:リベリア初代大統領J.J.Robertsの肖像が印刷されていることからそう呼ばれる)のみが流通するという異常な状況が続いた。その後、TCS体制が発足した94年3月に、両紙幣の国内互換性が政府により保証された。しかしその後も通貨統合の問題は長らく解消されないままだった。
国連リベリア信託基金(The UN Trust Fund for Liberia)
難民への人道的期ゅ有縁など、リベリア問題に対する西側ドナー国からの資金提供をうながすために国連が開設した信託基金制度。
多方面作戦(タコ作戦:Operation Octopus)
1992年後半にテイラーが命名したモンロヴィア再攻撃作戦の名称。NPFLは当時、国内北西部におけるULIMOとの戦闘をしだいに南下させ、二年ぶりの首都進撃を図っていた。
静穏回廊(Tranquillity Corridor)
1993年5月、ECOMOGが首都モンロヴィアからバルンガ方面に向けて設置を提唱した救援物資ルート。当時NPFLは”救援物資の輸送”を表向きの理由に、コートディヴォワール、ダナネ市経由のルートで大量の武器を調達していた。ダナネルートは静穏回廊の確立により、一時閉鎖されたが、同年9月ごろから機能を回復した。
敏速ゲリラ作戦SUGUMO(Surgical Guerilla Military Operation)
1993年5月にテイラーが発表した軍事作戦の名称。当時NPFLは二度目のモンロヴィア侵攻にも挫折し、ULIMOとECOMOGの両面攻撃を浴びて掌握地域を縮小させていた。この作戦には、ECOMOGが提唱した静穏回廊の構想に対抗するねらいもあった。
ハーベル虐殺事件(The Massacres in Harbel)
1993年6月、ハーベル市内の難民キャンプで、無力な婦女子を中心とする難民567名が虐殺された事件。国連は「ハーベル虐殺事件・事実調査団」を現地に派遣し、事件をAFL兵士による犯行と断定した。しかし、テイラーの直接命令によるNPFL犯行説を主張する報道も少なくなかった。当時テイラーは、国際社会の目をリベリアの惨状に向けさせ、和平交渉に手間どるECOWASに間接的なプレッシャーを与えようとしていた。
軽快移動攻撃作戦(イナゴ作戦:Operation Grasshopper)
1994年末にテイラーが発表した軍事作戦の名称。当時NPFLは、バルンガ本部をはじめ国内の主要拠点を次々と失っていたため、敏捷なゲリラ戦に訴えて失地挽回をはかろうとしていた。
モンロヴィア騒乱
1996年4月から5月にかけて首都モンロヴィアに勃発した騒乱。当時CSメンバーに就任していたテイラーとクロマーは、巨頭連合を組んでクラン系武装勢力の弱体化をはかっていた。同年3月、彼らはULIMO-Jに生じた内紛を口実としてジョンソンの逮捕をはかったため、ULIMO-Jの一部兵士が暴徒化し、市内の主要施設を襲撃した。一方、ジョンソンが避難していたBTCには、AFLやLPCなど他のクラン系武装勢力も結集し、多数の人質をとって籠城を始めた。市内各地で銃撃戦が展開された結果、数百万の住民が新たに難民化し、騒乱による死者も5000名に達した。中古の貨物船でモンロヴィア脱出をはかった後、寄港地を見つけられず沖合いを漂流する大量のリベリア版ボートピープルが、現地報道を通じて国際社会に波紋を投げかけた。
CS「政府軍」(CS"government forces")
1996年のモンロヴィア騒乱で、当時CSメンバーだったテイラーとクロマーが「政府軍」の名のもと、市内各地に出動させたNPFLとULIMO-Kの連合軍。ULIMO-Jをはじめとするクラン系武装勢力への攻撃を目的としていた。同年5月末、「政府軍」の中立性を危ぶんだCS文民メンバーは同軍兵士のモンロヴィア撤収を命じた。
LCN(Liberia Communication Network)
NPFLが1996年7月に開設したラジオ局。翌年の総選挙ではNPFLのプロパガンダ装置となった。NPFLは他にもラジオ局"Kiss FM”と週刊誌”Patriot Journal”を所有し、LPCも”Radio Liberty”を開設していた。武装勢力間の情報戦が激しくなったため、総選挙直前の97年7月には、フランス系NGO組織が選挙戦の中立的な情報提供をめざすラジオ局”Star Radio”を開設した。

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