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第1章 第2段落

pp.525-526 担当:星 泉

十五歳のころ,丁巳(1917)年の前後,シャマル・パンディタの寺であるディツァ寺において仏教哲学などを学んだ。その後,ラプラン・タシキル寺で学び,仏教哲学の授業で仏教基礎学,精神認証学,証因論理学など,波羅密多学の初段階までの修養を完全なまでに極め,学問に優れているとの名声が非常に高まった。そのころ故人は問答[tshogs langs:大勢の僧侶の中央で二人の僧侶が立ち上がって行う問答]の際,あまりに才気鋭く,ジャムヤンシェーバの著作にある考え方も認めなかったので,普通の学問僧たちは驚き,彼は直接間接にあらゆる面でかなり妬まれた。そこで彼は,チベット行きを勧められたので,二十歳のころ,丁卯(1927)年の前後,ラサに向かった。ラサに到着後すぐに,商人クンジョーノルブのもとに身を寄せ,宿主の勧めを受けて,パボンカの肖像を描きに,パボンカのもとへ出向いて肖像を描いた。パボンカはその才能を誉めたたえるだけでなく,当時はダライラマ十三世の名声と権威が高かったので,[そのような立派な肖像を持っていては]お咎めを受けるのではないかと思い,もっと大きな[ダライラマの]肖像画を描くように依頼した。[先生はその命の通りに]肖像画を描いたところ,それ以来パボンカに大切に手厚くもてなされるようになった。それからデプン大僧院に入り,学堂はゴマン,学寮はルンブムであった。故人は,デプン寺でゲシェ・シェーラプギャツォなどに師事して修業し,学問に優れているとの評判があらゆるところに広まった。その当時タシキルにいる同窓の修行僧たちに送った折句は下記の通り。

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参考URL

パルデン・デプン大僧院ゴマン学堂(伝統的仏教教育プログラム)