韓国・朝鮮研究コーナー

本田洋の個人情報


「韓国南西部南原地域におけるサンイルの事例」(ハイパーテキスト版)

1997年6月9日公開

1997年9月12日更新

copyright: HONDA, Hiroshi(無断転載を禁じます)

(hhonda@aa.tufs.ac.jp)


 

韓国南西部の農村でおこなわれた墓の整備作業(サンイル)の事例について,

写真図表(1)(2)を交えて紹介します。


韓国の墓制とサンイルに関する説明


サンイルの事例について

筆者がYマウル周辺で直接に参与観察することのできた11件のサンイル(表1参照)において,晉州蘇氏の一例を除けば,主宰者はいずれもYマウル住民,ないしはその父系近親であった.対象となった墓の被埋葬者や被埋葬予定者は全部で26名で,その内訳は,主宰者本人が1名,その妻1名,父母が9名,祖父母が6名,曾祖父母が5名,高祖が1名,五代祖父母が3名である.その大半は屋内祭祀の対象となっている高祖から下の世代の祖先で,その中でも特に曾祖父母までの三代に集中している(表2).また,このうち3名は生存中であるが,生前に墓を準備することは決して忌避の対象ではなく,むしろ父母の墓を生前に準備することが子女の孝の証にもなっている.作業の内容は,移葬,墓碑の建立,石物の設置,生前の墓の造営,莎草,石垣の積み上げ,墓の補修などであり,一回の作業でこの内の一つだけを行う場合もあったが,大半は,複数の作業を組み合せ大きな規模で行なっていた.また,墓碑の建立や移葬は,単独で行なわれる場合でも,作業の規模が概して大きくなっていた.

 サンイルの日取りは,「択日」によって決められる.すなわち,墓の父祖と子孫の「四柱八字」(陰暦の生年月日時)を易のテキスト(『天機大要』など)に参照して,「差し障り」(t'al)のない日が選ばれる.従って,択日をするには,易に関する専門的知識が必要とされ,一般の村人は,風水地理の専門家である「地官」や,易に明るい老人に依頼することが多い.季節的には,春先で陽気が良く農村では田植の始まる前の比較的忙しくない,清明寒食の前後の時期が好まれており,サンイルの大半がこの時期に行なわれている.清明節は,韓国では本来墓の掃除や補修を行なう日である.また,清明節,寒食および陰暦の閏月には,何を行なっても「差し障り」がないので,「無学な者」(musik-han saram)は,この時期にサンイルをやれば無難であるといわれている.筆者の観察した事例でも,11例のうち7例が清明,寒色,閏月に行なわれていた.(7)

表1 サンイルの事例


 サンイルの内容を,移葬石物設置墓碑建立の三事例から追ってみよう.


事例1 移葬をともなう事例(表1の事例d)

 90年 4月 6日(寒食),Yマウルに居住する彦陽金D(34才)(8)の父Aの改葬と,Aの前妻a1の移葬,及びAの後妻a2(Dの実母,53才)の墓の造営を内容とするサンイルが行なわれた.Aは83年,a1は46年に死亡しており,両者ともに改葬されるのは今回が初めてであった.Aは,改葬前と同じ場所に埋葬し直され,a1は,別の場所からAの墓壙の正面左に移葬された.同時に,a2が死後入るための石棺が,Aの墓壙の正面右に埋められ,「品字形」の墓が造営された.Aの従兄弟Mに拠れば,移葬以前のa1の墓は芝の生育が悪く,地官に場所を見てもらったところ「この位置ではchemi- pta(利益がない)」といわれたため,場所のよい父の墓所に移すことになったものだという.夫婦それぞれの「運」が共に「坐」に合うものであれば,夫婦を同じ墓域に埋葬しても特に差し障りを招くものではない.また,墓の草取り(伐草)や墓祀もしやすくなるので,近年では夫婦の墓を一つにすることも多いという.

 次に,Aの家族・親族について簡単にみておこう(図1参照).Aはa1との間に息子二人(以下B,Cとする),a1の死後に再婚したa2との間に三男二女(以下息子は出生順にD,E,F,娘はg,hとする)をもうけた.長男B(45才)は,Yマウルで生まれ育ったが,75年ごろ事業を行なうためにソウルに移住し,現在もソウルに居住している.結婚後,マウル内に「分家」した次男C(42才)も,79年頃にはソウルに移った.三男Dは中学卒業後に単身釜山に移り,そこで就職,結婚したが,怪我のために仕事ができなくなり,82年に南原市内に転居し,さらに83年に父が死んで実母a2が一人暮らしとなったため,生家に戻って農業を営むようになった.四男E(31才),長女g(27才),次女h(26才)は,結婚してそれぞれ釜山,裡里,ソウルに居住しており,五男F(23才)のみ未婚で,大学卒業後,扶安で就職した.一方,Aの父系の近親のうちでYマウルに残っているのは,図1のI,j,K,M, N,Oの六世帯である.また,LはYマウルから隣のCマウルに移り住んだ.この内,I,j,K,L,Mの世帯は,Dにとってはいずれもその高祖の父系直系男子子孫の世帯で,同じ彦陽金氏の世帯,すなわち「一家il-ga」の中でも特に近い関係にあり,他の「一家」とは区別してチバンガン(chiban-gan)と呼ばれている.チバンガンの父系親族は互いに「有服之親」(喪礼の際に,喪に服せねばならない親族,姻族)の関係にもあり,特に同じ村に住むチバンガンの世帯の間では,日常生活,生業活動,儀礼活動において密接な協力関係が見られる.一方,NとOはDにとって厳密にはチバンガンではないが,同じ村に住む親族距離の近い父系親族としてチバンガン同然の関係にあり,チバンガンと呼んでも差し支えないとされている.

 当日の作業は次のような手順で行なわれた.

@棺を掘り出す(破墓)

 Aの墓は,新作路(面役場所在地と南原市街を結ぶ舗装道路)沿いの,マウル北端の丘の南斜面に位置するT宗中(事例3参照)の墓所に作られている.午前7時少し前に,Aの墓前に,C,D,E及びAの末弟が集まる.簡単な供物を墓前に供え,Cが線香を焚き,濁酒をコップに注いでその上を三回巡らし,「お父さん,お母さんと一緒にして差し上げます」といいながら壇状の盛り土の前に三回に分けて注ぎ,全員で再拝する(写真).その後,この四人でAの封墳の芝を剥がし,封墳を崩し,地面を掘り下げてゆく(写真).この間に,Dの家から作業者や見物客をもてなすために,膳や食べ物,酒を運ばれてくる.また,同じ面内のSマウルに住む地官(姜氏,74才)も到着する.Yマウルに住むチバンガンの男性たちもやって来る.

A骨を取り上げる

 銘旌の布が木棺の上を被っているが,半分腐りかけている.木棺は漆塗りで,しっかりと形をとどめている(写真).Dが「お父さん,新しい家を立派に建てて差し上げますからね」といいながら蓋をこじ開ける.遺骸の肉は完全に腐食しており,骨は「明るい茶色norang- s k」をしている.一方,墓壙に向かって右側を平に均してから,紐を約20cm位の間隔で七本並べ,その上に紐と垂直になるように細長い木の板(七星板)を置き,さらにその上に窓戸紙(朝鮮紙の一種)を三重に敷く(写真).木棺の頭の方に香を焚き,「消毒のため」焼酒を口に含んで蒔く(写真).墓壙に降りたDが木棺から骨を頭の方から順に一つずつ取り出すと,上でCが受け取り,タオルで骨に付いた黒い付着物をきれいに拭き取ったあと,地官の指示に従って,先程の窓戸紙の上に頭蓋骨から下の骨へと順に並べてゆく.先ず,大きな骨を上下左右そのままに並べ,次に,鎖骨を上腕部の骨と背骨の上にわたすように載せる.そして,両手の細かい骨は左右別々に窓戸紙に包んで骨盤の両側に置き,両足の細かい骨はまとめて左右の臑の骨の間に置く(写真).全部並べ終わると,窓戸紙で骨を包むように覆い,七星板の下に並べた紐をその上にわたして結ぶ(写真).この間,その場に居た故人の娘や嫁は近寄ってこない.徐々に集まり始めていたチバンガンの男性や手伝いの村人もその場に近寄ろうとはしない.子供は近寄ると追い払われる.その場に立ち会ったのは,C,D,E,Aの末弟,地官,及び調査者のみであった.

 一方,a1の墓はYマウルの裏山にあり,以上の作業と平行してB,F,Kが同じような手順で墓を掘りかえして骨を取り出し,窓戸紙で包んで七星板に紐で結わえ付ける.それをKが背負子にのせてAの墓域に運び込み,背負子のままAの墓の向かって右手の松の木の下に置き,上に松の葉をかぶせる(写真).墓の場所が悪かった証拠に,a1の骨は「真っ黒」になっていたという.

 (写真:手伝いに来た村人に酒食が振る舞われる)

B墓壙を掘り石棺を組む

 チバンガンの男性の他に,Yマウルと隣村Uマウルの村人(男性)が手伝いに十名程度集まっている.地官が磁石を使ってA,a1,a2の墓の坐向の方位である「甲坐庚向」を調べ,この方向にAの墓壙の中央を貫くように,糸を張る.これと垂直になるように正面に糸を張り,距離を測ってa1,a2の墓壙の位置を決める.この墓壙も甲坐庚向に合わせる.Aの息子たち,弟,チバンガンの男性,手伝いの村人が手分けをしてAの墓壙の形を整え,a1,a2の墓壙を掘る.その間,地官は墓壙の位置と方位がずれないように見張る.作業の途中で,作業者が酒食を振る舞われる.次に,墓壙の底を水準器を使って水平に合わせて平に均し,まず,A及びa1の墓壙の底に石棺を組む.石棺の底は土が露出しており,水はけのよいようにさらに砂が敷かれる(写真)

C遺骸を墓壙に降ろす(下棺)

 七星板に載せたAの遺骨をC,Kが頭,足の方をそれぞれ持って,墓壙の中の石棺に下ろす.手伝いのチバンガンや村の男性はK以外は丘の麓に控えている.窓戸紙,及び「學生彦陽金公之墓」と墨で記された紙(銘旌)を載せ石蓋をかぶせる.Bが蓋の上に土を三回に分けて頭の方から落としてゆく(写真).続いてa2,Aの他の息子,娘,孫たちが順に同様の動作を繰り返す.a1の遺骸も同様の手順で埋葬する(ただしa2は加わらない)(写真).a2の墓壙は,石棺を下ろし,蓋をしてそのまま埋める(この時,中に生卵を入れろという者,および窓戸紙を入れろという者がいたが,地官が何も入れるなといったのでそのまま埋める).

D封墳を築き芝を植え付ける(成墳,莎草)

 下棺が終わると,手伝いの男性たちがやってきて墓壙を埋める.石工が石で基礎を作って半月形の石(月石)を据える.次に,手伝いの男性たちが,芝を植え付けながら,封墳を積み上げてゆく

E石物を置く

 床石,望柱石などの石物を据える.a1,a2の墓壙の下辺を結んだ線に接するようにその中央に長方形の石(安盤石)を置き,四隅に鼓の形をした石(puks k)を置く.昼食後,床石を置くために滑車で床石を持ち上げる.手伝いの村人が即興で詞を作って歌い,床石の上にAの息子を一人ずつ載せ,焼酒を飲ませ,つまみを食べさせて,酒代だといって金を出させる(手伝いの村人はそのお金で酒やタバコを買って,酒はその場にいるもので飲み,タバコは男性の参加者に配られた).滑車の鉄組に結び付けた縄に紙幣が結わえ付けられると床石を少し持ち上げる.婿,娘,嫁,末弟夫婦,後妻, K, Mの弟も順に載せて金を出させる.その後,鼓石の上に床石を降ろす.墓の前方と左右に境界を区切る細長い石(t s k)を置く.墓の前方左右に望柱石を立てる.

F山神祭を行なう

 墓のある墓所の山神に対して,Aの家族が準備した祭需を捧げる.祭官,祝官はAのチバンガンの男性が務める.

G墓の父母への祭祀を行なう

 床石の上に祭需を並べ,儒礼の形式に従ってAの息子,婿,嫁,娘などが順に献盃し再拝をする.

H作業を手伝った村人や参会者,見物人に酒食を振舞う(宴卓の準備はa2,娘,嫁,チバンガンの主婦,金氏のなかでも親族距離が比較的近い世帯の主婦一名,Yマウル内の宋氏に嫁いだMの妹があたる).

IDの家に,Aの家族,チバンガンの世帯員全員,Dと親しい村人らが集まり,夕食を食べて,歌い踊って遊ぶ.

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移改葬について(表1)

 筆者の観察した11の事例のうち,7例で移改葬が行なわれていた.ただし,対象となった祖先は,父母から曾祖父母までに限られていた(表2参照).一次埋葬から移葬までの期間の長さは事例によってばらつきはあるが,いずれも遺骸の肉が腐食する,すなわち「肉脱 yukt'al」した後に移葬されていた.肉脱に要する時間は墓の場所の状態によって異なるが,最低五年程度は必要であるという.遺骸を移す場所には,なるべく風水が「良い」場所を選ぶ.ただし,一次埋葬をした場所に差し障りがなければ,移葬をしなくともなんら不都合はない反面,一旦「良い」と判断された場所に移葬しても,何らかの差し障りが生ずれば,別の良い場所を求めて何度でも墓が移される.実際,事例bでは祖父は死後84年間に四回,祖母は死後50年間に三回移葬されている.また,事例cで移葬された曾祖母の場合,夫はすでに三回移葬されていた.

 村人は,個人によって程度の差こそあれ,墓の風水に関する知識を共有しており,その知識に拠って個別の墓の場所の良し悪しをある程度までは判断できる.その知識の内容としては,周りの山勢が良い,青龍白虎に取り囲まれている,西風や坤申風(西南方から吹く風)が吹き込まない,墓の地質が砂ないし黄土で水はけが良い,小川が前をながれている,易学上被埋葬者の「運」が「坐」の方角に合っているなどの条件を充たしているのが良い場所とみなされ,一方,蛇が出たり,虫が湧いたり,墓に植えた芝が枯れたりする場所は悪い場所とみなされている.また,肉脱した骨の色が明るい茶色であれば良い場所で黒ければ悪い場所である.さらに,子孫に不幸が続いたり,祖先が夢枕にたって居心地の悪さを訴えることが,墓の立地を再検討する契機にもなる.しかし,良い場所は,「 席」(儀式で礼拝するために設ける敷物を敷いた場所)一つ分くらいの広さしかなく,以上のような良い場所の条件を満たす場所の探索ないしは特定の場所がその条件に適合するかの判断は,実際には,風水地理の専門家である地官に委ねざるをえない.風水の良し悪しをめぐる判断は,地官によって食い違う場合さえあり,墓の場所の選択に当たって複数の地官の意見が参照されることもしばしばある.

 移葬に関して,従来の風水研究では,概して,死者に対する子孫の孝の実践という側面よりも,むしろ子孫の利己的な風水操作の側面が強調されてきた(9).Freedmanの漢族研究でも,墓の祖先は受動的な存在で,墓の風水は祖先の意志とは関係なく子孫の幸福・厚生に影響を及ぼすという点が強調されていた(10).しかし,Yマウルの事例では,子孫の幸福自体,死んだ祖先の安寧を前提とするもので,そこでは風水操作は祖先への「孝」と矛盾しないばかりでなく,むしろ逆に「孝」の積極的な実践と捉えられている.すなわち,「移葬は子孫の道理として行なうもの」であり,「「亡人」(死者)が快適でよい状態にあればこそ,子孫も心休まり幸福」で,亡人に「痛いところがあれば子孫たちも心が休まらない」.事例dで地官を務めた姜氏も,「子息に道理(父母の陰徳に報いること,すなわち「孝」)を果たさせる」ことに,彼自身の墓地風水判断の意義を見出していた. その一方で,近年では墓の管理や祭祀の便宜を考えて夫婦の墓を一つにまとめたり,往来のしやすい場所に墓を設ける傾向も強くなっている.姜氏によれば,昔は風水の恩恵をより多くの場所から受けようとして父と母の墓を別々に作ることが多かったが,近年では墓への往来や祭祀の便宜を考えて父母の墓を一緒にすることも多くなっているという.表1で取りあげた事例でも,対象となった全15基の墓のうち単墳は5基だけで,残り10基はいずれも夫婦を同じ墓に埋葬する形態をとっていた.特に,祖父母から下の世代の祖先の墓は,すべてがこの形態であった(表2参照).別々に設けられていた夫婦の墓を移葬によって一つにまとめた事例も6例あり,特に父母を対象とするサンイルでは,いずれも移葬によって父母の墓が一つにまとめられていた(表2参照).父母の移葬の場合は,墓の場所も集落から往来が便利な道路沿いや山丘の麓の近くが選ばれていた.


事例2 石物設置の事例(表1の事例e)

 90年 4月 6日,Uマウル在住の彦陽金氏が,午前中に曾祖父母,午後に五代祖の墓に床石を置いた.彼とUマウル在住の長男,三男,Yマウルに住む娘婿の他に,Uマウルの男性二人,Yマウルの男性一人を雇って作業を行なった.見物人はいなかった.事例1と同じように,床石を持ち上げ降ろす際に作業者が子孫を床石に載せて祝儀を受け取った.作業終了後には,被埋葬者に対する祭祀,及び山神に対する供犠がなされた.

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石物について(表1)

 「石物」とは,墓におかれる石造装飾物の総称である.この内で代表的でかつ最も頻繁に設置されるものは床石である.床石とは,墓前でのチェサの際に「祭需」(供物)を載せるのに使う方形の石のことで,正面には故人の本貫・氏名・号や坐の方角,側面には床石を据えた年月日と携わった子孫の名が刻まれる.従って,床石は特定の墓に眠る故人の名を後世に伝え,墓が遺失されるのを防ぐ記憶装置となる.事例c,j,k以外の事例では,対象となった墓にはすべて床石が設置されていた.ただし,床石を据えると「差し障り」が生ずるとされる坐もあり,このような坐に設けた墓には床石は置かれない.例えば,「穴」(風水地理で生氣の集まる場所を指す)の形状が蜘蛛穴,百足穴,蚕穴の場合,床石を置くと子孫が死ぬなどの害がもたらされるという.事例jでは,高祖の墓が蜘蛛穴であっため,床石は置かれなかった.また,坐の方角が「三殺」(11)にあたる年に床石を置いても,子孫が三人死ぬという.

 比較的頻繁に設置される石物には,床石の他に望柱石,石人などがある.地官姜氏によれば,石物は子孫が自分の家門(chiban)や祖先を他人に自慢するために置くもので,墓に対して決して風水的に良い影響を及ぼすものではない.墓が様々な石物で飾りたてられるようになったのは比較的新しいことで,昔の長老たちは墓を派手に飾るのは良くないと語っていたという.


事例3 墓碑建立の事例(表1の事例h,i)

 T宗中,S宗中はそれぞれ事例1のB〜F兄弟の六代祖P,曾祖Qを頂点とする門中である図1参照).T宗中の組織の時期は未詳である(12)が,S宗中は,Qの六人の息子の代で組織された.90年 7月 1日,午前中にPの墓碑建立,石物設置・墓の補修,およびPの妻の石物設置が行なわれ,午後にQの墓碑建立,石物設置が行なわれた.

@Pの墓は,Yマウル後方の山中,徒歩で約一時間ほど入った山奥にある.Pの墓にはすでに床石が据えられている.Yマウル居住のPの父系男子子孫(D,I,K,M,N,O)に加えて,Cマウル在住の五代孫L,および全州在住の彼の長男と長男の長男,全州在住のT宗中の門長R(五代孫),その息子三名,門長の弟S,およびその息子二名が当日作業を行ない,他にYマウルの男性6名,Uマウルの男性1名が作業を手伝った.一方,Dの母,I・K・M・N・O・Pの妻たち,及びjが食事の準備にあたった.作業は次の順番で行なわれた.先ず,Pの墓碑を建てる.墓碑が建てられると,P,R,Sおよび見物しに来た彦陽金氏の長老一名が墓碑の前にご祝儀を供える.次に,封墳に土を加えて芝を植え付ける.周囲の雑木を切り倒す.望柱石を立て,山神祭用の石を置く.最後に,父系直系子孫および「一家」の一部が参加して,Pに対して祭祀が行なわれる.また,山神に対しても供犠が行なわれる.

APの妻の墓は,Yマウル北端,新装路沿いにある小さな丘の南斜面にある.@の作業終了後,集落に戻る前に,ここに寄って,望柱石を立てる.作業終了後,Pの妻に対する祭祀,山神に対する供犠を行なう.

BQの墓は,Yマウルの前方(東方)にある低い丘の西斜面に設けられている.@Aの作業に当たった者が,午後@と同じようにQの墓の墓前に墓碑を建てる.午後には,彦陽金氏の長老6人が見物に来る.墓碑に帽子をかぶせるときに,Yマウル男性の一人が即興の詞で歌い,Qの子孫から祝儀を集める.この金でタバコや飲料水を買い,作業者に振る舞う.作業終了後,Qへの祭祀,および山神への供犠がなされる.

<墓碑建立の写真>

墓碑建立(1)(2)

墓碑銘(1)(2)

祭祀(1=供物)(2=拝礼)(3)(4)

山神祭(1)(2)(3=供物)

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墓碑について(表1)

 墓碑には,故人の名と,故人に関する記憶(故人の人となりや主たる功績)が刻まれる.それに加えて,故人の属する父系氏族の由来や始祖から故人に至るまでの系譜,及び故人の父系子孫の名が刻まれることも多い.このような墓碑は,他人から立派な「両班」だと讃えられるような「功」を残した祖先に対してのみ作られるものだとされている.ここで「功」とは,具体的に国家に尽くした功績,官位・官職,部落や地域社会での徳望,村人・地域住民を救済・指導した功績などを指す.表1にあげた事例で墓碑建立の対象となった故人は,いずれも官位・官職はなかったが,それなりの「功」を残した人物であった.例えば,事例2のP,Qはいずれも学問,徳に秀でた人物であり,事例aで主宰者の父は貯水池の堤の建造と村の周囲の山の植林に尽力した人物であった.また,筆者は直接立ち会うことはできなかったが,李朝末期に中枢院議官を務めたQの息子に対して,事例2のサンイルの直前に,墓碑が建てられた.墓碑の建立は,旌表のように地元の郷校や成均館による認定を必要とはしない.しかし,墓碑銘の作文は子孫以外の第三者,それも概して文人として名の通った人物に依頼されることが多く,さらに,墓碑銘はサンイルの場で地域の儒者によって評価され,著名な人物のものは郡誌に収録されるように,そこで再構成された故人の記憶は,公的評価の対象となっている.


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