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今年も墓場でお花見だ

榮谷温子


 初めて東京外国語大学の正門を入ったのは,高校生活最後の3月,国立大学入試の2次試験の朝でした。取り寄せた願書には,

「当日は,近くで縁日がたつので交通機関の混雑が予想される。」
と注意書きのあった記憶があります。とげ抜き地蔵の4のつく日のことですが,それが外語生の間で「じじばばの日」と呼ばれ恐れられている(?)ことを知るには,さらに1ヶ月以上を要しました。

 入ったのはアラビア語学科。当時は「ロン・ヤス外交」たけなわの時期で,「浮沈空母」日本がアメリカに向かってどんどん傾いていったころです。第三世界のことばを専攻することで,精神的な平衡を保ちたい気持ちが働いていたのかも知れません。

 1年生のクラスには私たち新入生15人,それに先輩3人が加わりました。先輩たちは隣の席から,
「みんな,字から覚えないといけないから大変ねー。でも大丈夫,すぐ覚えられるから」
と,余裕しゃくしゃくで励ましてくれました。

 授業が始まってしばらくして買った辞書がアラビア語-英語辞典だったので,必然的に英和辞典も持参することとなり,それに読解のテキスト,文法入門書,活用表と,高校の頃とほとんど変わらぬ大荷物で通学することになりました。

「大学ってもっとエレガントに通えるところかと思っていたのに」
と,十代の黄昏を迎えた乙女たちは嘆いたものです。

 学内ボート大会では予選落ち,外語祭のアラビア語劇では,顔中茶色に塗られながら台詞3つの黒人奴隷役を演じ,肝心のアラビア語は追試に脅え,そうして,さえない女子大生に再び染井吉野の季節がめぐってきたのでした。

 染井霊園での満開の桜見物は結局4回では終わらず,途中エジプト留学を挟んで,外語大から計3枚の卒業証書をいただきました。

 3枚の最後の1枚は,昨年3月にAA研の博士課程を修了したときのものです。エジプトから帰って1年の浪人生活の後,なんとか博士課程への合格通知を受け取って,オマーンの調査から帰られたばかりの中野暁雄先生(現・名誉教授)を研究室にお訪ねすると,
「これをね,○○君と××君とそれに僕も欲しいから,5部コピーして」
と,いきなり渡されたのがコプト語のテキスト。

 うーん。カイロのアメリカン大学の修士課程では,親切な先生方に囲まれて幸運かつ幸福な日々ではあったのですが,古典アラビア語の文法書をちまちまと読み進めては自己嫌悪に陥る毎日でもあったのです。それで,
「もうヘブライ語だの何だの脇目を振るのはやめにして,アラビア語だけをきちんと勉強しよう」
と決心して日本に帰ってきたのでした。コプト語のテキストも,本棚の奥か押入の中にしまい込んでしまったはず。

 ところが先生はコプト語だけでなく,古代エジプト語,アムハラ語,アッカド語等々古今東西のアフロアジア語の授業を次々と開設なさるのです。こちらはタンスの肥やしにするはずだった本を授業のためにせっせと発掘し,また別の資料を買ったりコピーしたり。さらに,学部で現代ヘブライ語の授業があるのでそっちにも出るようにとのお達しがありました。月曜日の1限目でしたっけ。

 当初の予定とは違うことになりましたが,また授業を受けても消化不良を起こしてばかりでしたが,AA研という場で中野先生に指導していただくことなくば,アラビア語の方言の調査(モロッコ。たった2ヶ月でしたが)に行くことなどなかったでしょうし,博士論文なんぞ書けもしなかったでしょう。  それから1年たった今年,ご縁あって(腐れ縁とおっしゃらないで下さい!)またもやAA研にお世話になることとなりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。



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