サハラの湯治場にて


             

黒田 礼二      


 アズベンの山地は、サハラ砂漠のほぼ中央部、ニジェル共和国の北にそびえる、というよりはむしろうずくまっている感じの、火山岩の山塊だ。東には、一木一草の存在も許可されない、最高品質の砂漠、テネレが無限に広がっている。北は、アルジェリア国境を隔てて、ホッガールの巨大な岩塊に対する。

 テネレの砂の海が、空虚を具象化した存在なのに比べて、アズベンの地は、サハラ的標準では、「豊饒」に分類されているようだ。なにしろここの岩山は、サハラを吹きわたる熱風の中に、ほんの微かに残る湿気を、情け容赦もなく搾り取る術に長けている。

 年に数回の、有るか無しかの降雨。もちろん「雨」の概念を大幅に水増ししないといけないが、それでも水につましいサハラの植生や生き物には十分らしい。涸れ谷の筋には、栄養失調気味のアカシヤとドゥーム椰子の群落がしがみつき、サハラが緑の草原だった遠い過去から、細々と生き残った羚羊が何頭か、稜線を駆けることもある。

 アズベン地方には、歴史が始まって以来、ゴービラーワーと呼ばれる、ハウサ語を話す人々が住み着いていた。しかし、北方から砂漠を越えて侵入してきた、藍染めベールの戦士、トゥアレグの部族連合によって、術もなく叩き出されてしまう。南西の緑濃いサバンナに逃げ落ちたゴービラーワーはその後、ハウサの地に覇をとなえたが、故地アズベンを恢復することは出来なかった。

 このアズベン山地の中央、玄武岩の山塊の陰に、熱い湯の流れる泉があり、長患いに苦しむ砂漠の人々が、長駆して湯治に訪れるという。この話を初めて聞いたのは、サハラを縦横に走り抜けるリビア人のトラック運転手からだった。

 まるで砂漠の気候のように情け無用のドライバーで、乗客のCFAフランの手持ちが十分でないと知ると、荷物もろとも荷台から投げ下ろして、走り去るのを得意技としていた。砂丘のど真ん中であろうと、次の井戸まで百キロもあるような難所であろうと、ぜんぜん気にせずに。

 法外な運賃の言い値を、びた一フランも値切らずにスッパリ払ってくれた、世間知らずの日本人に気をよくしたのだろう。このドライバーは、サハラを縦横に駆け巡った、自分の旅と人生、それに砂の風土とを、自慢九分に本音ちょっぴりで、私に吹きまくってくれたのだ。

 その後、母親の湯治に同伴して、その温泉に長逗留した経験があるという青年に会ったこともある。北ナイジェリアの古い町、ザーリヤに滞在していた時だった。このハウサ青年の家から、湯治場までは、片道たっぷり一千キロの道のりがあった。

 一度訪れてみたいものだと思いながら、うまい機会がなく、十数年が過ぎた。やはり砂漠の真ん中に聳える山塊。駱駝か驢馬、それにガイドが見つからないと、どうにも動きがとれないのだ。もうほとんど諦めていたようなものだった。つい一昨年の秋まで。

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 アズベン山地の南西端にあるアガデスの町。アルジェーと北ナイジェリアのカノとを結ぶルートの要衝だ。

 サハラを南北によぎるいくつかの縦断路のうちでも、最重要で、交通量も多い。そのランドマークは、どんな観光写真にも必ず顔を出す中央モスクのミナレット。土造り、先端を削ぎとった四角錐の形で、足場棒材の端が四面に突き出た、サハラに共通のスタイルだ。

 砂と叢林を越えてきた旅人は、陽炎の上にかすかに揺らぐこのミナレットを見て、アガデスの賑わいと冷えたビールの近いことを知る。

 ここには、トゥアレグ部族連合のサルタン、トゥアレグの人々の言語であるタマシェック語では、アメノカルと称される首長の宮殿がある。アフリカに於ける「宮殿」の意味範囲は、日本の「マンション」が木造賃貸しアパートを意味するに至ったよりも、もっと強烈な下向けの変革を経ている。

 その宮殿、いや屋敷、いやあばら屋のたたずまいと平行して、現在のアメノカルの権力は、綺麗さっぱりゼロ。ニジェル共和国の旧宗主国だったフランス仕込の、支配権の中央集中は見事なもので、首都ニャメイの大統領府だか革命評議会だかが、「跳べ」と一言つぶやけば、国内の誰もがピョコピョコと一生懸命跳ねる。アガデスのアメノカルも含めて。

 町の経済も、その昔に叩き出したはずのハウサ族の商人に、完全に押されている。要するに、1970年代のサハラ周辺部大旱魃で手ひどい打撃を被って以来、トゥアレグ族はかなり落ち目なのだ。サハラ・トゥーリズムのはじっこで細々と生きる「観光トゥアレグ」の数も増えた。

 国営観光会社のアガデス事務所で紹介してもらったガイドは、ウドゥンク、年齢不祥、アズベン生まれのトゥアレグ族。

 母語のタマシェック語の他に、アラビア語とハウサ語を完全に話し、加えてフランス語と、ニジェルの支配部族の言語であるソンガイ=ジェルマ語を、かなり使うことができると自己申告。旅については、アルジェリアからマリから、チャド、ナイジェリアに至るまで、砂漠のルートはすべて事細かに通じているという触れ込みだった。

 契約した駱駝は二頭で、装備及び食糧はすべてガイドが調達する。私が揃えなくてはいけないのは、たった一つ、鞍敷きの毛布だという。何故鞍敷きだけが旅装に含まれないのか、ウドゥンクに尋ねても、どうもはっきりしない。しかし、たいした金額でもないので、すぐにバーザールに走って、ナイジェリア産の安毛布を買って来た。

 ニジェルは、ほんの一息をつくにも、まばたき一つするにも、役所のスタンプが要るという、完全な超官僚主義体制を保持している。たとえば、ちょっとした町の入り口と出口には、古びたテントの陰に、競合する幾つかの軍・警察システムの一つが、必ず控えている。

 地元の人々にも、どの組織かはっきりしないので、なべてジャンダルムと呼んでいるようだ。通過する外国人旅行者は、ここでパスポートを提示して、スタンプを押して貰うしかけだ。

 運悪くこのジャンダルムに、文章ごころが有ったりすると、始末が悪い。ミミズ文字であることないこと、長々とエッセイを書かれて、大事なパスポートの一頁を潰されてしまう。ニジェル国内をほんの一週間旅すると、貴重な空き頁が、確実に二十頁は減少する。

 異邦人が駱駝の旅をするなどといったら、膨大な申請書類に写真を何枚も張り付けて、当局に願い出なくてはいきないのは、もちろんの話。つたないフランス語で作文した書類を事務所の係員に渡して、シュレテ、つまり公安を司る内務省の出先機関に走ってもらった。何故か、本人の出頭を要しないのだけが救いだった。

 こんな調子で、出発の準備が完全に整ったのは、アガデス到着から三日目になってしまった。

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 ウドゥンクは、黒い長衣に黒いターバン、先行する駱駝の上で、ゆったりと搖れに身を任せている。アガデスを発ったのは、昨日の午後遅くだった。今朝は日の出直前の出発。それから二時間、ようやく熱気をおび始めた朝の太陽が、顔に痛い。

 駱駝が、何故「砂漠の船」と呼ばれるのかが理解出来たのは、乗り初めて一時間もしないうちだった。つまり、船酔するのだ。やくざなピッチにロール、おまけにヨウイングまで重なって、豪快なオホーツク級三次元搖動を発生させる。

 それにまた、鞍がいけない。

 トゥアレグの用いる駱駝鞍は、確かに美しく、藍の長衣にヴェールの乗り手と一緒だと、まさしく一幅のサハラ観光絵葉書になる。だが、美しいデザインはやはり優れた機能に結びつくという、現代エンジニアリングの常識はここには適用されない。

 薄板を釘で止めただけのきゃしゃな骨組の表面に、革を張った構造。装飾過剰で危険な突出部がやたらと多い。五十年代アメリカ車のテールフィンを髣髴とさせるが、その重戦車的質量感は皆無、すぐに壊れる。

 駱駝の瘤の前部スロープに、たった一本の鞍革だけで固定するのだが、もちろん固定されるわけがない。駱駝が歩を進める度に前方、頚の方に滑り落ちようとする。乗り手の方はそうはさせじと、頚の後方に掛けた足をふんばって、滑り落ちる鞍を必死に食い止めなくてはいけない。

 生まれ落ちた時から駱駝に馴れている、トゥアレグの男たちにとっては、こんな動作は体にしみついているに違いない。自分達の鞍が、欠陥商品だなどとは、夢にも思ったりはしないのだろう。

 サハラ南縁には、駱駝を飼う農耕民も多い。駱駝そのものは、トゥアレグ経由で導入したのだが、トゥアレグ鞍だけは、賢明にも、誰も受け入れなかった。頑丈なアラブ風荷鞍が、広く使われている。私の悪意ある個人的な批判は、地元の多くの人々に支持されているのだ。

 昨日の半日、全力を込めて踏んばっていた、右足の踝のあたりが、鑢よりもっと粗い駱駝の皮膚と擦れて、どうやら皮が剥けてきたらしい。痛い。ヒリヒリと激痛が走る。これがもう一週間続くのだが、それが終わる頃には、私の右足はほとんどすり減っていたりして。化膿して、壊疽になって、膝のあたりで切断したりして。

 こういう情けない思いに沈んでいるうちに、先に進むウドゥンクとの距離がみるみる開いてきた。口綱の先端で、ワルキヤーの背中にピシリピシリとくれるのだが、ワルキヤーの方は、鞍上の乗り手を完全になめきっている。叩かれた瞬間だけ歩を早めるけれど、すぐにペースを落とし、ついでに巨大な歯をむき出して、私を嘲笑する。

 ワルキヤーは雌の三歳、かなり大柄だが、おとなしい素人向きの駱駝だと、ウドゥンクが保証してくれた。ハウサ語で「稲妻」という意味の名前なのだが、これは持ち主の願望を現わしたに過ぎないらしく、現実を全く反映していない。もちろん、乗り手の技量の問題があるのは認めるけれど。


 黒い玄武岩が散らばる斜面。黄金に枯れた草がそこかしこにしがみついている。ゆるやかな登りだが、ワルキヤーのペースがまた一段と落ちた。鞍上に半身をずらして振り返るウドゥンクの、舌打ちが聞こえるような気がする。

 峠にかかった。かすかに印された道筋は、もはや直線ではない。左に折れ、右にくねり、それでも標高だけは急速に高まって行く。頭上に覆いかぶさるようにのしかかってくる漆黒の巨岩が、陽光をさえぎった。その瞬間、風が涼しい。が、ふたたび峠を吹き降ろしてくる熱風がとってかわる。

 峠の頂上にさしかかるすぐ手前、岩壁の下に、アカシヤの繁みがあった。ここで鞍から滑り降りたウドゥンクが、自分の駱駝を膝まづかせる。折ったままのその膝に、素早く足縄をかませた。これで駱駝は動けない。小休止だ。

 ウドゥンクの真似をして、立ったままの駱駝から滑り降りるには、地面はあまりに遠すぎる。教えて貰った通りに身を屈めて、ワルキヤーの口綱をせいいっぱい下方に引っ張った。これが膝を折るきっかけになるはずなのだが、背中の素人を馬鹿にしきっているワルキヤーだ。おいそれとは思い通りにはなってくれるわけがない。長い頚をくねらせて、私の腕を齧ろうとする。一瞬手を引っ込めたので、汚れた便所のタイルのような歯は、胸の悪くなる音をたてて、空気を噛みとった。

 見かねて近寄ったウドゥンクが、頚を抑えて、強く口綱を引いた。たまらず性悪ワルキヤー、まず前足の膝をいやいやと折った。鞍上の体が、激しく前方に傾く。次は後足を体の下に折り敷く段階で、今度は鞍が後方に大きく振られる。そしてもう一度、体が前方に投げ出されそうになるのは、ワルキヤーが前足を完全に折り畳んだ時だ。これで休息定位置、足が鞍から直接地に届いた。

 ウドゥンクが岩の陰から手招きしている。欠けた二本の前歯の隙間から、笑みが溢れでて来るようだ。近付くと、嬉しそうに示すのは、岩壁の裾にえぐられた窪みだった。長さが五メートル、幅二メートルぐらい、そこに澄んだ水が光っている。あるかなしかの雨水が、岩を伝って流れ込み、岩壁の陰で狂暴な陽光から護られて、蒸発もせずに残ったプールだった。

 「アズベンじゃ、どこに行っても水があるよ。ほんと、水だらけ。ガリン・ルワー、水の町ってもんだね。」

と、誇らしげに宣言するウドゥンク。

 ウドゥンクの話しているハウサ語では、「町」のイメージは、人々が生きる空間を指す。農地と家畜、それに賑わいが言葉の陰に見え隠れしている。それに対する「荒れ野」は、もろもろの悪霊や野獣が住み着いている場所。人はここを急ぎ足で通り過ぎることはあっても、長い間は生きてはいけない。

 だからウドゥンクは、このアズベンの山なみを、水で賑わう町、人々に優しいスペースと見なしているわけだ。私の目には、どう見てもサハラ砂漠の一部、要するに荒れ野としか映らないアズベンを。同時に水そのものを、人間と同じ水準、つまり町に住む存在にと格上げしているのがみずみずしい。

 サハラに住む人々にとっては、テネレやビルマの砂の海の絶対的空虚に比べたら、アズベンは確かに、豊かに水の寄り集まる大都会なのだろう。

 しかし、この峠の水溜りが、昨日出発以来初めて出くわした水場だった。アズベンがもしもウドゥンクの言葉通りに水の町だと認めるにしても、その町はどうやら寂れ果て、消滅寸前のゴーストタウンに思える、少なくとも私の視点からは。サハラの住民と私の間には、埋め難いイメージの食い違いが存在するのだ。

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 午後の太陽が、西の山稜に引き寄せられ始めたころ、アガデスを出てから最初の人影に出会った。

 アカシアの木陰にしゃがんだ青年と、驢馬に乗ったまま休んでいる青衣のおばあさんの、二人連れ。祖母と孫息子、いや、アフリカでは女性の老けるのは超特急だから、母と息子なのだろうか。鼻筋の通った穏やかな顔つきは、遊牧のフラーニー族に違いない。ウドゥンクが鞍の上から、大声で挨拶をする。

 のんびりとしたハウサ語のやりとりを聞いていると、どうやらこの二人も、湯治場に向かう途上らしかった。およその方角はわかっているのだが、どの道を辿るのが一番楽かと、ウドゥンクに尋ねていた。おばあさんは、黒い布に顔を隠して、身動きもせずに耳を澄ませている様子だ。

 こまごまと道を教えてやっているウドゥンクに、うなずきながらじっと聞き入っている青年。あいまに、ちょっと私の方を向いて微笑んだ。

 ウドゥンクが、駱駝の肩に鞭をくれると同時に、道中の別れの言葉をつぶやく。

 「サウカ・ラーフィヤ」安穏に到着されんことを。

母と子が声を揃えて応えた。

 「アッラー・シ・キヤーイェー」アッラーの御業の称えられてあれ。

 日没まで歩いて、広い涸れ谷の端で野営することになった。鞍と荷を下ろした二頭の駱駝は、ウドゥンクがその前足を足縄でしっかりと縛り合わせた。これでヒョコッヒョコッと少しづつ歩けるが、遠くには行けない。夜の間、近くで刺の潅木でも齧っているわけだ。

 小さな火が燃え上がった。

 その熾の下には、ウドゥンクの練ったセモリーナ小麦粉のドウが埋められてある。砂糖で過飽和状態の甘過ぎ緑茶を、二人合わせて一リットルは十分に飲み干した頃、あたりは完全な闇だった。

 火を脇に移して、砂を掘ると、灰色に堅く焼き上がったパンが現われた。もちろんこのままでは食べられない。予め用意して、煮立てておいたシチューの中に、このパンを砕いて放り込み、もう一度煮る。これでやっと歯を欠かずに食べられる。ハウサ語で「グラーサ」という調理テクニックだが、語源はアラビヤ語。つまりアラビヤ半島からサハラのはずれまで、砂漠地帯ではどこでもこの料理をするらしい。

 空になったシチュー鍋を、砂で綺麗に磨いたウドゥンク。そのまま、人情のように薄い毛布をひっ被っただけで、たちまち寝入ってしまった。この水気のかけらとて存在しない山地に、蚊の羽音が盛大に響く。

 寝袋のジッパーを締める前に、ざっと星空を走査する。黒く静まり返った谷の口に、北極星が低くかかっていた。高さは二十度ぐらいだろうか。

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 アガデスを発ってから三日目の午後、踏み跡は涸れきった広い谷へと下っていった。河床は百メートル程の幅、平坦な白砂が、日光を乱反射する。谷の両側斜面にはかなりの緑。不細工な賽子のような土造りの住居が三軒、四軒、段丘のテラスに張り付いている。

 と、ウドゥンクが鞍の上で身をよじり、振り返った。顔をほころばせ、谷の行く手を指しながら、

 「タファーデク」

と大きく叫んだ。目的地、タファーデクの湯治場が、ようやく出現してくれるらしい。一段と力を込めて、ワルキヤーの肩に鞭をくれてやる。

 それからおよそ一時間、河床の踏み跡が大きく北にふれ、そのはなを曲がった先が、広い砂原になっていた。谷の両岸が急角度で後退し、幅は一キロぐらいに開けている。中央に、ひときわ緑の濃い叢林が見えた。等間隔に植林されたニーム樹の林、その木陰の涼しさが、駱駝の歩みを吸い寄せる。

 「タファーデク。ここで泊まり。」

ウドゥンクが、瞬く間に鞍と荷をおろし、手ごろなニームの木の根元に積み上げた。二頭の駱駝は、すぐに足縄をかませられて、遠くの段丘の上、刺のブッシュの方に追いやられる。

 温泉を眺めることにした。

 ニームの林から西に少し離れた砂原に、必死で砂の中に潜り込もうとしているようにも見える、小さな石積みのむろがあった。足跡が八方からそのむろに通じている。

 低い戸口の脇、あるかなしかの日陰の中に、洒落たミラーサングラスのジャンダルムが、居眠りをしていた。近付こうとすると、はっと頭を上げ、片手で寄るなとのジェスチャー。

 ハウサ語で挨拶して尋ねてみると、どうやら温泉には、一度に一グループの湯治客しか入れないらしい。入湯料は一回、百CFAフランとのこと。今湯につかっている家族が出たら、私の番になるという。この風呂番憲兵に風呂銭を払って、待つことにした。

 十分もしないうちに、ガタピシ扉が中側から押し開けられて、一団の黒衣の女たちが現われた。両脇を二人の若い娘たちに支えられた老婆。三人の髪型から察すると、遊牧のフラーニー牛飼い家族らしい。中央のお婆さんは、しっかりと目を閉じ、歩くのもやっとといった風情だった。黒布の浴衣がぴったりと張り付いた体は、枯れ果てていた。

 そして、私の目の前をゆっくり引きずられて行くお婆さんの、その手には指が一本もなかった。

 ジャンダルムが扉を片手でおさえながら、早く入るようにと手招きしている。立ち上がって近付こうとするのだが、突然足の筋肉が凍り付いてしまって、うまく動いてくれない。

 ハンセン氏病の病原菌は、その感染力は極度に弱く、保菌者と長期間継続して接触していない限り、何の心配も要らぬとは知っている。だが、いくら知識として保有していても、現実の状況に追いつかれると、意識下の理不尽な恐怖が、体をがんじがらめに縛り付けてしまうのだ。

 しびれを切らせたジャンダルムが声を高めた。

 「入れ、入れ。」

 と、夕陽がミラーサングラスに反射して、私の目を射た。その瞬間、なぜか呪縛が解けた。足が動く。歩ける。頭をすくめて、戸口をくぐり抜けることができた。

 暗い。入口から下にくだる石段が十段ほど、ぼんやりと見える。この濡れた石段を慎重に降りた先に、温泉があった。四メートル四方ほど、周囲はセメントで固めてあるが、底は砂地のままで、湧き出す湯に砂が巻返っていた。深さは50センチぐらいか。

 湯に手を浸してみた。熱。あわてて手を引き上げて、息を吹きかけるほどだった。湯温はゆうに摂氏五十度を越えている。無意識に水の蛇口を探している自分に気がついて、その馬鹿さ加減がおかしかった。このサハラの山地で、湯が湧き出ていることだけでも奇跡なのに、それに加えて都合よく、冷水が噴出しているわけがない。

 しかしこの湯温なら、ひ弱なハンセン氏病の菌が生き長らえる可能性は、全くない。その点では急に気が楽になった。  服を脱いで、一気に、熱湯に体を沈めた。身体の全表面で、熱が爆発した。息が出来ない。体をほんの少しでも動かしたら、熱の痛みが押し寄せるから、身じろぎ一つ出来ない。三十まで数えたところで、たまらず石段に駆け登った。もう一度浴槽に戻る決意を堅めるのに、たっぷり十五分はかかったと思う。

 夕暮れ、一昨日途中で出会った母親と息子が到着した。懐かしそうに声をかけてきたので、会話がはずんだ。西アフリカの内陸では、誰もがハウサ語を話すので、異教徒で異邦人の私がそのかたことを操っても、一人たりとてびっくりしたり感動したりしてくれない。

 「無事の御到着、祝福されてあれ。道に迷いませんでしたか」

 「いいえ、全然。お二人の足跡をたどって来ましたから」

 足跡のほとんど残らない礫の道を二日間、事もなげにた追跡して来た母子。荒れ野と砂漠に住む人々の能力は、全く異なる環境に育った私にとっては、特殊相対性や超伝導理論と同じ程度に理解可能だ。

 そういえばウドゥンクも、前夜足縄をつけて放しておいた駱駝を、翌朝その足跡をたどってみつけ、連れ戻すのが日課だった。昨日の朝は、それが三時間ほどかかった。ウドゥンクが時速六キロで歩くとしたら、駱駝は九キロの彼方に彷っていったことになる。そしてもし、駱駝が見つからなかったとしたら。この綱渡りのような砂漠の旅に、急に心臓がキューンと締まった。

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 湯治客は、ニーム林の中、おもいおもいの樹の木陰をえらんで、そこに長逗留する習慣らしかった。雨が降るわけでもないから、テントを張る必要もない。全部で十組ほどのグループが、茣蓙や敷物を敷いただけのキャンプに、炊事の煙をたち昇らせていた。

 黒のガウンに二本の長いおさげを垂らした女性たちは、トゥアレグ族だ。尋ねると、国境を北に越えたアルジェリアはホッガール山塊の住民、ケル・アハッガーレンとわかった。ハウサ語は喋れなかったが、アラビヤ語を流暢に話す、物静かなおばさん達だった。

 そのすぐ隣の木の、さきほどのハンセン氏病のお婆さんは、アガデスから約200キロ程南方の町、ターヌトの近くからきたと、付添いの娘さんが教えてくれた。フラーニー遊牧民の女性に特有の、鈴を振るような高く澄んだ声に、真っ直ぐに伸びた鼻の、この美しいお嬢さんにも、ある日、ハンセン氏病の症状が厳然と現われてくるのだろうか。お婆さんは、茣蓙の上でこちらに背を向けて横になったまま、声一つたてなかった。

 少し離れた木陰には、別のフラーニーの一家が滞在していた。この家族は息子が患っているのだが、母親と兄弟姉妹、およびその子供達合わせて六人が、キャンプしている。湯治にかこつけて、全員がここタファーデクでの滞在を楽しんでいるようだった。

 くだんの息子は、ニームの幹にもたれかかって、目を閉じ、静かに数珠をつまぐっていた。異常なほどに痩せこけた体、深く窪んだ頬には奇妙な潰瘍がいくつか。おそらくカポジ肉腫なのだろう。後天的免疫不全症候群という言葉が、脳髄の脇をサッと駆け抜ける。タファーデクの湯が、この病に本当に効くものなら、アメリカからは患者が何十万人も押し寄せて来るに違いない。

 大部分の湯治客は、アガデスから驢馬に乗ったり、あるいは徒歩でここタファーデクにやって来る。林のここそこに佇む驢馬たちは、ニームの葉のざわめきに負けまいと、「アルアルアル」と悲劇的な絶叫を続けていた。

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 入浴料を払ってやるから、ぜひ温泉に浸かりなさいという、私の提案を拒否してウドゥンク、浴槽の室の周囲百メートルにはけっして近付かなかった。

 そのかわりに、谷の右岸となる岩壁の裾、やはり岩の窪みに淀む水溜りに出掛けては、体を洗ったり、洗濯をしていた。緑色にどんよりと死んだ水で、鼻曲がりの悪臭が立ち昇っても不思議はないくらいだったが、これでもウドゥンクにとっては、水の町の賑わいなのだろう。林から驢馬が何頭か水を飲みにきては、その代金として、盛大に糞を残していった。

 岩壁の背後は、なだらかな丘に続いていた。その頂上には、旗というよりはボロ布がいくつか、風にはためいていた、いや、ボロめいていた。ウドゥンクに尋ねると、何やらの聖地らしく、旅のイスラム学者や善男善女が、あのあたりで祈ったりするとのこと。異教徒が足を踏み入れても良いものかどうか聞くと、ウドゥンク、一笑して、

 「そんな事気にする奴が、ここらにいるものか。」

 そういえばウドゥンク自身も、四日間一緒に旅をしていて、一度もサラートをするのを見た事がない。つまりイスラム教徒必須の一日五回の礼拝をするのを。アズベンではイスラムの歴史は長い。人々はすべてアッラーとムハンマッドの教えに篤いはずなのだが。

 黒っぽい火成岩の礫が積み重なった丘の、頂上へ向かう小道は、踏み固められていて歩き易かった。中腹まで登ったところで、何か背後に奇妙な、冷えた空気が流れるような気がして、振り返る。

 山裾の礫の原は眼下、強烈な陽光を吸い尽くして、黒く静かに広がっていた。しかし、目をすがめて見ると、ところどころに低く、岩をまとめた膨らみが見える。その膨らみを取り囲むように、楕円形の輪郭をなして、岩が並べられているのがわかった。

 この岩の楕円は、まだ積んだばかりのものから、もはやほとんど周辺の礫に融け入ってしまったような古いものまで、十、二十、いや百、二百、見おろす原の全面に散らばっていた。

 墓場だった。それも広大な。

 タファーデクには、定住する住民はいない。これだけの大きさの墓地を支える集落も、過去の廃虚も存在しない。ということは、この墓場の下に横たわるのは、温泉を訪れる湯治客しかいないわけだ。

 何百年の昔から、砂漠の彼方からこのタファーデクの湯に湯治に来て、その効なくこの地でみまかった人々が、野営地からは直接見渡せない、段丘上の墓に葬られ続けてきたのだ。あれだけの熱い湯。その湯に何日も何日も、長時間浸かっているのだから、それでなくても体力の衰えている病人の、急速な衰弱の程は、想像に難しくない。

 もちろんこの湯の薬効の故に、病癒えて、故郷に戻れる幸せな湯治客も多いとは思う。だが、熱湯に体力を吸い尽くされて、タファーデクの墓地に永久に留まる人々の数も。

 タファーデクは、湯治場というよりは、アズベン山中の砂の罠、死を呼び寄せる蟻地獄なのだろうか。

 丘のいただき近くには、大小さまざまなケルンが林立していた。短い棒に結びつけられた、色あせた布きれが、北風に音をたてる。付添いの家族が、病む縁者の快復を願って、一つづつ石を積み上げたのだろう。温泉の薬効をひたすらに信じ、まさかその湯が愛する人の死期を早めることもあるなぞとは、夢にも疑う事なく。

 いやそれとも、人々はこの死の罠の存在を承知で、その故にこそ、見込みのない長患いの親族を連れて来る、という可能性もある。もしそうだとしたら、病人はもはやすべてののぞみを捨て、速やかな死のみを願って、ひたすらに熱湯の責めを耐えているのか。

 丘の北方には、ますます高く連なるアズベンの岩山が、見渡すかぎり折り重なっていた。水の気配どころか、生命のかけらひとつ感じられない、涸れた山なみ。ウドゥンクがどんなに水の町だと言い張っても、私には死の町としか思えなかった。

 足元の小さなケルンに、黒い礫を一つ積み足してから、丘を下った。

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 ニームの木陰ではウドゥンクが、午後のお茶の支度をしていた。戻って来る私の方を眺めて、歯の欠けた口を開いて微笑む。砂に座って、茶を飲むようにと、手招きする。

 親指ほどの小さな茶碗の、甘い緑茶を啜りながら尋ねてみた。

 「ねえ、ウドゥンクさん。このタファーデクに湯治に来て、病気が悪化してしまう人も、多いんじゃないんですか。ここで死ぬ人も。」

 ウドゥンクは軽く頭をのけぞらせ、喉の奥で小さく舌打ちをした。サハラの人々に共通の、肯定のしぐさだった。



旅の情報

 アズベンはハウサ語での名称。タマシェック語とフランス語ではアイールと呼ばれる。

 ニジェルの首都ニャメイには、パリからエール・フランスのフライトが便利。エール・ニジェルが破産したので、ニャメイ・アガデス間には、陸路しか交通手段はない。国営バス会社(SNTN)が、週に三便運行しているが、恒常的に満席なので、三日程度以前に予約が必要。片道四千CFAフラン程度。

 アズベン山地への旅には、アガデスの警察(シュレテ)から、許可書を発行して貰う必要がある。ガイドの同行が必須。ガイドと駱駝の雇いあげは、国営旅行会社(オフィス・ナショナル・デュ・トゥリズム)のアガデス支店を通じると、割高だが、警察との書類交渉が楽になる。バーザールの周辺に、フランス人やイタリア人経営の旅行社があり、ここでもガイドと駱駝(及び四駆車とオフロードバイク)の契約ができる。

 ガイドは一日あたり一万フランが上限。駱駝は一日一頭当たり約五千フラン。ガイドの乗る駱駝の分も、支払わなくてはならない。ガイドが炊事もしてくれるがヌーヴェル・キュィジーヌを期待してはならない。