線路は続くよタンザニア編
タンザニア鉄道の旅 とりあえず最後まで。
緑の平原を行く
翌朝、7時に目が覚めた。久しぶりに熟睡できた気分だ。ベロニカ達とルームサービスの朝食を食べていると列車はドドマに到着した。ダルエスサラームからドドマに首都を移転する計画があったが立ち消えになったままだ。取り立てて高い建物もないのっぺりしたまちだった。
ドドマを発って再び列車は西へ向かう。大小のバオバブが点在する平原の中を進んでいく。この辺りは最近少し雨に恵まれたようで緑が回復し始めている。朝の冷たい空気がその光景を一層さわやかにしている。午前中はずっとこの緑のサバンナが続く。
しばらくしてキンティンクという駅に止まった。駅舎以外何もないが、線路沿いには大勢の人が立っている。人を待っているようでもあり、ただ列車を眺めているだけのようでもある。列車に乗る人は稀だ。よく見るとヤシの葉で編んだ籠やゴザを売り歩く人たちが足早に行き来している。隣の車両の方を見ると、客を見つけたのか車窓に向かってゴザをかかげ、大声で値段交渉している人がいる。停車時間が短いから売り手は必死だ。値段交渉しているうちにもう列車が動き出した。ゴザ売りは列車について歩き出し、やがて小走りになる。交渉がまとまったのか乗客がゴザを受け取った。"Chapu chapu!(早く!)"ござ売りはそう叫んで駆け出しながら手を伸ばした。乗客はあわてる様子もなく窓から手を伸ばして代金を手渡した。息を切らして立ち止まったござ売りの姿を私は安堵の気持ちで見送った。
正午、サランダという駅に着く。いつも列車がお昼に着くからだろう、線路沿いに食べ物を売る粗末な屋台がずらりと並んでいる。主食であるとうもろこしの粉を練ったウガリや揚げパンのマンダジ、バナナやマンゴーなどの果物、そして串に刺した牛肉や山羊肉の炭火焼などを売っている。簡易屋台を見て歩くのは楽しそうだが、今日も晴天で暑すぎる。牛肉の串焼きとソーダを買って車内に戻る。
車内ではベロニカが山羊の焼き肉を買って食べていた。お互いの肉を分け合って食べる。山羊肉は臭みがなく牛肉にないうまみがある。「どうして日本では山羊を食べないの。」ベロニカが尋ねる。「たぶん日本の気候が山羊の飼育に適さないからだと思う。」と適当に答える。しばらくしてベロニカが尋ねる。「結婚してるの?」「うん。」「子供は?」「いない。」アフリカで何度このやりとりをしたことだろう。私の答えに対する彼らの反応はお決まりだ。「えっ、いないの?」そして、「すぐに神様が授けてくれるよ。」という慰めが続く。もう少ししつこいタイプになると、「どうして生まないの。33才だなんて子供を生むにはリミットだよ。」とくる。こちらにもそれなりに事情はあるのだが、彼らの常識を覆すだけの説得力には欠けるようだ。毎度のことで少々うんざりしながらも、分かったふりをして頷いておく。「私はこの子が生まれてすごく幸せ。」そう言ってベロニカはウルスラを抱き寄せた。
盲人の笛吹き
真昼の日差しが照りつける緑のサバンナの中を列車は走り続ける。時折小さな駅に止まる。駅舎には大きなアルファベットで駅名が書いてある。今度はイティギという駅に止まった。小さな駅舎とその横の大きな木が木陰をつくっている風景は他の駅と変わらないが、ここでは耳慣れない音色が聞こえてきた。金属製の笛が奏る繊細でか弱い音だ。強い日差しの照りつけるサバンナの風景にはどこかそぐわない。突然あることを思い出した。
「もしかしたらあの盲人の笛吹きでは?」私はデッキの方へ走っていった。
今回タンザニアに来る前に『タンガニイカ湖畔』(伊谷純一郎他著)という本を読んだ。その後記にこのタンザニア鉄道の一節があり、そこに「笛を吹いているのは、紺のズボンとあせたブルーのシャツを着て、白いズック靴をはいた盲人だ。」というくだりがあるのだ。「中世の楽曲を思わせる単純な調べ」という表現が印象的で記憶の片隅に残っていた。
デッキから見ると確かに盲人が銀色の細いたて笛を吹いていた。アフリカらしくない、クラシック音楽を思わせるような静かな曲だった。やっぱりそうだったのかと感心して眺めていたが、よく考えてみると奇妙だった。あの本は73年の発行だが、笛の音は「もう何年も前から」流れてくると書いてあった。ということは30年近くこの盲人は笛を吹き続けてきたのだろうか。あるいはこの笛が盲人から盲人の手に渡り続けてきたのだろうか。軽い混乱を覚えながら、財布からお金を取りだした。笛を吹く盲人にどうやってコインを渡していいか分からなかったので、隣で一緒に見ていたおじさんに渡してもらう。「ヘイ、このママが20シリングやるからもっと笛を吹いてくれって。ほら、受け取れよ。」盲人はコインを受け取ると笛を続けた。再び列車が動き出した。盲人の姿がゆっくり遠ざかっていく。たて笛の音も風の中に消えていった。
流れ行く風景の中で
相変わらず列車の中は蒸し暑い。通路に立って窓から顔を出すと風が心地いい。そうしてずっと外の景色を眺め続けている。所々にバオバブやマンゴーの木が美しい姿をあらわしている。マンゴーの木はこんもりと丸く大きく、いくつも並んでいると絵のようにかわいらしい。トウモロコシ畑、キャッサバ畑、豆畑が見える。思い出したように小さな集落があらわれる。牛の群と少年の姿が景色の中を流れていく。
走り続ける車や列車に乗って窓の外を眺めていると、自然にいろいろな考えが浮かんでは消え、外の景色と共にとめどない思考が頭の中を流れていく。目の前には広大な平原がどこまでも続いている。朝からずっとこの緑の平原が続いている。するとタンザニアの広さが実感として迫ってくる。国土は日本の2.5倍。人口2800万人。その8割以上が農民だ。この大地が人々を養っているのだと実感する。
日本で聞くアフリカのニュースはいつも暗く悲惨なものばかりだ。内戦、飢饉、貧困、政治腐敗。しかしアフリカにはこの大地があり、ニュースにならない圧倒的多数の人々が日々の暮らしを営んでいるのだ。雨さえ降れば大地は恵みに溢れ、人々が飢えることはない。
もちろん飢えないことと幸福な暮らしとは別物だ。町では道端で子供達が物売りをしてその日の食いぶちを稼いでいる。警察署では窃盗を働いた若者達が捕らえられては引きずり回されている。お金が欲しいのは日本人もタンザニア人も変わらない。そこに幸福があるのだという幻想もまた変わらない。それが幻想だということを私たちはもう一度身を持って知ることができるだろうか。大地の上に根づく本当の幸福を探しあてることができるだろうか。
列車とともに気だるい午後の時間が流れていく。沼地にアカシアの木が点在する風景。「僕はこの景色が好きなんだ。」隣のコンパートメントの元カナダ大使の息子カハニが窓の外を眺めながら言った。タボラの森林局に勤めている彼は土地や植生のことに詳しい。
やがてミオンボ林と呼ばれる疎開林が続くようになる。「この辺では煙草の葉を栽培しているんだ。タンザニアの生産量の80%がここで栽培されているんだよ。ほら、あの小さな小屋で葉を乾燥させるんだ。」また所々、高い木の上に丸太を横にして吊るしてあるのが見える。何か分かるかい、蜜バチの巣だよと教えてくれる。彼との会話はスワヒリ語で始めてもいつも途中から英語になる。次に止まった駅では子供達が "Asali, asali!(はちみつ)" と言いながらコニャギ(タンザニア製コニャック)のビンに入ったはちみつを売り歩いていた。
カハニとの出会いは大げさに言えば運命的なものだったかも知れない。彼は私がビクトリア湖周辺の言語調査に行くのだと言うと、ウケレウェ島に行くように勧めた。ビクトリア湖南方に浮かぶ島だ。彼はそのウケレウェ島の出身で、かつてそこを支配した首長筋の末裔だった。結局私はこの出会いに身を任せてムワンザからウケレウェ島に渡り、ウケレウェ語の調査をすることになる。
夕暮れのタボラ
永遠に続くかと思われた暑い午後もようやくその終わりを迎えようとしていた。西の空から橙色に染まり始める。「あと2つ駅を過ぎたらタボラよ。」ウルスラを着替えさせ自分も身支度しながらベロニカが言う。「今度タンザニアに来るときは是非タボラの我家にも来てちょうだい。」荷物をまとめ終えて彼女は言った。
午後7時、夕闇の中タボラ着。大きな駅舎があり、出迎えの人や客引きのタクシー運転手、荷物運びの人などでごった返している。駅へ降り、カハニと別れる。「ウケレウェ島へ行ってみて。また会おう。」そう言いながら握手すると彼は人混みの中に去って行った。ベロニカは列車の窓から荷物を降ろすのに忙しくしている。迎えに来ていた彼女の夫とあいさつする。娘と再会し、しっかり手を握っている。荷物を降ろし終えたベロニカがやってきた。「泥棒にはくれぐれも注意してね。ムワンザに着いたら電話ちょうだい。じゃあ、またね。」彼らを見送ると急に心細い気持ちになった。
列車はキゴマ行きとムワンザ行きに切り離されて別々のディーゼル車に接続され、午後9時半、闇の中へと出発した。ガランとしたコンパートメントの窓から見る景色は、暗い大地のシルエットとまさに無数の星々だった。オリオン座が頭上近くに見える。目が慣れてくると、霧のように細かい星がオリオン座の中を埋め尽くしていることに気がついた。日本では見たことのない星空だった。
ビクトリア湖!
3日目の朝、前日と同じように7時頃目が覚める。朝の空気は冷たい。窓の外には相変わらず、緑の平原となだらかな丘陵、畑や小さな集落、マンゴーの木やサイザル麻という景色が続いている。
朝食のバナナを食べていると列車は山を登り始めた。遠く眼下に広がる平原。その景色も大きな岩山で遮られるようになる。奇岩が重なり合う山間の中をゆっくり進んでいく。岩山にへばりつくように建てられた家がみえる。今にも倒れてきそうな大きな岩が家の後ろにそびえている。やがて下り坂になり、しばらくすると人里らしきところに出てきた。
岩石の地質のせいか地面も空気も砂っぽい。家々が続くようになり、人が大勢行き来しているのが見えてくる。明らかに町の中に入ってきたのだと思った途端、家と木々の間から青黒い色で横たわる水面が見えた。ビクトリア湖だ!思わずカメラを取り出してシャッターを切る。が、すぐにカメラを置いた。対岸がすぐそこに見え、イメージしていた広大なビクトリア湖とは違いすぎる。インド洋の抜けるような美しい青とも違い、沈んだ暗い色をしている。19世紀の探検家気どりでビクトリア湖を目指してきたのにガッカリではないか。まぁ、たった3日の鉄道の旅で探検家のような感動を期待するのも厚かましい話か。
気を取り直して地図を見てみると、ビクトリア湖は南端のところが60kmほど南に入り込み、細長い入り江になっているのがわかった。列車はその入り江に沿って北上していたのだった。新たな期待を取り戻したとき、列車は終着駅ムワンザに到着した。午前8時45分。本物のビクトリア湖にお目にかかるために、私は重い荷物を背負って列車を降りた。茫洋としたビクトリア湖には、その後ウケレウェ島へ向かう船の上で対面することができた。
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