西田龍雄 2001 『生きている象形文字』五月書房


 「創作された時代が . . . 古くはなく、ごく新しいにもかかわらず」「原初的な状態に近い方法で字形が作られ、しかも今なお、その字形が伝承されている特殊な文字」である、中国雲南省のナシ文字(モソ文字、トンパ文字)の概説書である。この文字自体は最近日本でもお茶のラベルに利用されたりしているので、御覧になった方も多いだろう。

 初めの章で研究史や民族の背景を概観した後、文字の輪郭(アウトライン)が描かれる。当て字的に用いられた表音文字が多いことなど、古代エジプト語と共通である。これは世の中には視覚的に象る事が出来ないものが多い以上、当然の帰結であり、文字の本質に関わる事であるが、意外に思われる方も多いと思う。

 次の章では、文字がどのように現実を象っているのか、それらの象形文字から派生字を作る際にはどのような方法が用いられているのかが述べられる。文字の字形に民族の自然環境が反映されている事を論じている箇所もあり、面白い(この点に関しては23頁「<東西南北>の表現法」も参照)。

 次の章では、ナシ文字の構成原理を漢字の六書と対比している。著者によれば、六書は世界の総ての文字に適用できる原理である(例えば河野六郎・西田龍雄1995『文字贔屓』三省堂の154頁参照)。転注の解釈は果たしてこれでいいのか、複合語の各々の単語に一つずつの文字を与えて書いた連続と会意文字との違いは何か(例えば78頁「山のふもと」と84頁「鰻」)、著者の言う注音文字(主たる意符に音符を付け足したもの)と形声文字ははっきり分けられるのか、等、厳密に検討すれば問題も色色あろうが、話はなかなか面白い。取分け、76頁の「言葉としては別の単位であるにもかかわらず、同じまとまりとして書かれてしまう」象形文字(例えば「山が燃える」は象形文字で表すが、それは単独で使われうる象形文字「山」「燃える」の組合せではない)、文字自身の構成とは直接関係しないが77頁の読んでいく順番と関係なく「現実を象って配列」した表記法(例えば「天地人」と云う語をこの順で発音するのに上から天、人、地の順に書く)と云った現象が興味深い。

 続く2章ではモソ文字を使って書かれた作品(宗教の経典)の内容が紹介される。次に表音文字が扱われ、起源的に漢字を含め幾つかの要素が混入している点が論じられ、旧版の最終章では雲南の(てん)人の古代絵文字が紹介される。本書はもともと1966年に中公新書の一冊として刊行されたものであるが、この五月書房版では付録が付されており、漢字周辺文字が紹介されている。

 以上で分かるように、又「はじめに」でも述べられているように著者の興味の一つは「それぞれの文字がどのような構成法で成り立っているか」ということである。それはそれで興味深いのだが、欲を言えば実際に言葉を表す際にそのようにして創られた文字のどれをどのように使って書き表すのか、といった運用面、或いは文字の機能といった点は余り深く考察されていないのが残念である。例えばこの文字には、「いわゆる<テニヲハ>にあたる言葉とか、とくに重要でないと考えたものは、経典にはいっさい書かない。書かない言葉は、巫師が実際に読誦する際に、口で補って読むわけである。用いる文字の数とか、それにともなう判断はすべて巫師の意志によって決まる。別に一般的な通例とか特例の規則がたてられているわけではない」という特徴がある。勿論、文字化すること即ち厳密な音声言語の再現ではないのであるが、ここまで来ると、「厳密には文字と呼べないかもしれない」ということにもなる。呼べるとしても文字とそうでないものの境界線近くにあるということになろう。これは文字論にとって極めて興味深い示唆を与える可能性がある。

 尤もここまで論じるには、言語の構造自体にも触れる必要がある。又、当該文字がどのような場面で使われるかといった側面にも気を配る必要がある(本書でも簡単には述べられているが)。従ってこのような概説書に望んではいけない事なのかも知れない。

 最後になるが、本書には多数の図版が収録されていて、眺めているだけでも楽しい本となっている。本書評では色色注文もつけたが、基本的にはしっかりした良書である。興味の有る方には是非一読を勧めたい。


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