ルイ=ジャン・カルヴェ 1998 『文字の世界史』 河出書房新社 矢島文夫監訳


 本書はチュニジア生まれのLouis-Jean Calvetの1996年の著作、Histoire de l’ecriture (Paris: Plon)の全訳である。

 「はじめに」や「おわりに」に見られるように、著者はアルファベットが最高の文字である、と云う偏見に反対している。これはよく考えれば当たり前の事であろう。しかし、あのムーアハウス『文字の歴史』に於いてすら見られなかった考えであり、今でも文字化の問題を考える際に暗黙のうちに厳密な音韻表記を至上のものと見なす考え方が蔓延っている事を考えると、矢張り驚きである。西欧アルファベット文化圏でこのような書が出版された事は実に喜ばしい。「おわりに」から少し引用してみよう。「うたかたの言葉を永劫に伝えようと作り出された文字が多種多様なのは、人間の想像性がいかに豊饒なものであるかという証しであろう。言葉を形にしておくことが考えられたのは人類の歴史とともに古く、やり方は様々だが、基本はどれも同じことで、移ろうものを固定する、つまり言葉を何らかの図形で書きとめるというものであった。この原理からやがて幾多の文字が発生することになるが、もとよりその間に優劣のあろう筈がない。」

 本書は表題の通り、文字の歴史を扱っているが、その際に「絵文字」と云う概念が重要な役割を担っている。但し、このそれぞれ独立した要素である「絵文字」が全体で一つの体系を構成する「文字」とは一応別物である、と云う事に最初から気付ける人は少ないかも知れない。巻末の用語解説もこれだけでは何の事やら好く分からない。従って、最初の2、3章はかなり分かりにくいものとなっている、と云う印象を受けた。

 話を更に分かりにくくしているのは、以下の様な記述である。「このドゴン族の絵文字とドゴン語の間には何の必然的関連もない。」(19頁)、「すなわち言語と文字とは起源においてまったく異なる記号表現(評者註:原文では「シニフイアン」とルビ)の二つの組織体、つまり身振り表現と絵画表現から生じた。」(23頁)、「シュメールの絵文字体系はある一言語に結び付かない」(44頁)、「表意文字がその基本においてどんな特定の言語とも結びつかないということ」(55頁)、等等。文字と言語は切っても切れない関係にあると考えるのが普通であろうし、それが正しいと評者も考えるが、そうした思い込みがあると、上の様な記述はすんなりとは理解しにくいだろう。これらをきちんと理解するには上述した「絵文字」と「文字」の違いを認識する事に加えて(但し後者は前者から発展したもの)、著者の「絵文字」の起源に対する斬新な考え方を理解する必要がある。つまり、著者は絵文字を必ずしも音声言語を写そうとしたものであるとは考えていないのである。かかれた記号が手による通信コードを転化したものである可能性、即ち「最初の文字というものが音でなく、しぐさを写し取ったもの」である可能性も考慮しているのである。これは文字の起源の問題に留まらず、人間のコミュニケーションの歴史にまで話の広がる壮大な考えである。音声言語と絵文字の間に全く関係が無い事など、本当に在りえるのかは難しい問題であるが、考え自身は非常に面白い。評者の分かりにくい説明ではなく、是非とも本書(の「はじめに」及び第1章)を実際にじっくりと読んで戴きたい。

 第2章以降は、理論的に難解な箇所も少なく、読み通すのもそれほど難しい事ではない。但し、詰まらないと云う意味ではなく、漢字を扱った第4章など、我々なら当然の事として見逃してしまうような現象にも注意を払っている。

 アフリカニストとしてはアフリカの文字に一章を当てているのも嬉しい。その理由は「近年になってアフリカに文字が誕生している」からであるが、そこで上げられている文字の大半は殆ど世に知られていないものと思われる。その意味で貴重な一章である。これらの文字は「公式に使用されたことがないどころか出版物にもほとんど用いられない」そうであるが、こうした人目につかないアフリカの文字の研究が盛んになる事を期待したい。但し、そのような研究は言語学者以外の人が進め、言語学以外の分野で注目を浴びるのではないだろうか。表記の仕方を観察し、音声言語と絡めて記述するのは言語学者の仕事であるが、使われていない文字では言語学者はどうしようもない。本章も「文字戦争」「西欧が全世界に対して握っている権力」を論じる事で締め括られている。

 以上述べてきたように、本書は実に独創的な視点から書かれた物である。但し、欠点が無い訳ではない。先ず、一人の人間があらゆる文字に通じ、間違いの無い記述をなすことは極めて難しい。漢字に関しては訳者も指摘している通りだが、132頁のギリシア語に無いコプト文字の起源は、少なくとも私の知る限り、古代エジプト語の文字に由来すると考えるのが通説である。111頁のセム語の説明でKTBTの項、KTBNの項というのもよく分からない。語末のTやNは活用語尾であり、語根のKTBとは同列に扱えないとおもうのだが。仮に「項」と云う概念に意味があるとしてもKTTBの項とあるのはTKTBの誤りであろう。評者には指摘出来ないが、他にもこのような誤解があるのかも知れない。

 しかし最も残念な事は、文字に優劣が無いと云う著者のメッセージが、その文字の歴史の記述からは充分に説得力のあるものとしては伝わってこない、と云う点である。「アルファベットを最後にもってくる構成を避けた」との事であるが、これだけでは足りない。冒頭で紹介した「おわりに」の引用箇所も、これ自体は感銘を与えるものであるが、冷静に考えればしっかりした根拠は示されていないような気がする。言語に優劣が無い事を論ずる際に、どの言語も当該社会に充分に役立っている事が屡理由として挙げられる。文字に関しても同様に、歴史だけでなくその機能の考察が不可欠なのではないか、と評者は思うのであるが、如何であろうか。

 しかし、そうしたメッセージを伝える事のみが本書の目的ではないのかも知れない。研究史の長い分野を扱っている以上、必然的にありきたりの説を述べている箇所もあるが、全体としては「監訳者まえがき」にもある通り、「従来出ている文字概説書とは一味異なる斬新な切り口が感じられる」本である。取分け西欧中心の発想に染まっている人に薦めたい。


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