ジョルジュ・ジャン 1990年 『文字の歴史』 創元社「知の再発見」双書


 本書は、Georges Jeanの1987年の著作L’ecriture: memoire des hommesの日本語版である。忠実な全訳ではなく、削除・加筆・訂正が加えられている。

 第1章では楔形文字の歴史が述べられ、続く第2章ではエジプト文字と漢字、第3章では各種アルファベットの概説が見られる。特に目新しい説は見当たらないが、綺麗なカラー図版が多用されており、見て楽しい本に仕上がっている。

 これらの図版には、文字の書かれた原資料の写真も含まれている。これを見て感じたことは、取分け古代文字の場合、印刷用に綺麗に転写された「活字」を通してのみ文字に接していたのでは、何か文字の大切なものが感じ取れなくなるのではないか、と云う事である。評者は楔形文字によるアッカド語もヒエログリフによる古代エジプト語も齧った事があるが、所詮は現代の教科書を通してである。本書17頁の粘土板の写真(これはシュメール語だが)や36ページ以降に見られるパピルスの写真を見るにつけ、資料を直接判読する事の難しさを思い知る。況して、第6章127頁の、危険を冒してまで岸壁の碑文をノートに写し取ったローリンソンの逸話に至っては、驚嘆するしかない。これは些か極端な例であろうが、評者の文字に関する発言が我乍ら何ともつまらないのも、こうした面の実地経験不足に、少なくとも部分的には由来しているのであろう。

 「文字の歴史」を考える時に、取分け言語学者は、その形や音価には気を配ってもその周辺の事情には余り目が行かない傾向がある。第4、5章では文字のそのような側面、即ち写本と印刷技術に就いて述べている。これまた綺麗な図版が多用されているのが嬉しい。148頁以降の資料篇「技術の影響」の項も参照されたい。

 先にも少し触れた第6章は解読に就いて扱っている。簡単な記述しか見られないのは残念だが、この解読も文字学・文字論の重要なテーマであろう。

 本書の後半は「資料篇」となっていて、これまた様々なテーマを扱っている。図版が白黒になってしまっているのだけは残念であるが。

 日本語や漢字に就いての記述は、これまた例に漏れず、首を傾げてしまう点が含まれている。少なくとも現代の実情に合わない点があり、東洋に対する誤解が生み出されているのではないか、と心配になってくる。尤も出典がディドロとダランベールの『百科全書』なのだから仕方あるまい(或る意味では、貴重な資料と言えよう)。

 文字の芸術的な側面も扱われており、書道やカリグラム(文字を利用した絵)が紹介されている。「だがその一方で、まったく素質に恵まれていない人もいる。そういう人にかぎって強情者であることが多く、その性格を直すためには、やはり不断の練習と訓練を課すしかない」などと云う記述も見られる(155頁、『書の技術』より)。文字の本を読んでいて人生に就いて教えられるとは思わなかった。文字の世界は全く奥が深い。

 楽譜に就いての記述があるのも、この種の本としては珍しいだろう。然し、書き手の伝えたい事を理解する際の手掛りとなるものを視覚的に表現したもの、と云う点では楽譜は文字と何ら変わるところが無い。すると、楽譜の形態は文字と同じく多用であり得るし、実際そうであった事が本書からも分かる。又、それ自身が芸術的な価値を帯びる事もあろう。こう考えると、我々が学校で習った楽譜は、その様々な可能性の中のごく一部に過ぎなかった事が分かる。

 本書はその他の事も扱っており、実に様々な内容を含んでいる。或る意味で、邦題の『文字の歴史』と云うのはミスリーディングであるかも知れない。評者自身、このタイトルからは本書の最初の3章が扱うような内容のみを想像していた。大体この邦題自身がフランス語の原題の直訳にはなっていない。それには監修者の矢島氏も触れており、「古代から現代に至る文字使用の潮流を扱っていることから」この様な邦題にした、との事である(1頁)。

 この問題は、結局は、文字と云う物の捉え方次第であろう。文字をその形や音価のみに限定する事無く、幅広い観点から考察しよう、と云う立場に立てば、本書のような書物こそ「文字の歴史」と云う題に相応しい。そして、現在求められている文字観と云うのは、このような多面的で幅広いものである、と評者は思うのだが、如何であろうか。正書法の制定など、実用的な場面であればあるほど、こうした文字に対する幅広い視野が大切になる、と個人的には思うのであるが、如何であろうか。


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