讀下:9-0988

文書構造

讀み下し文

文書本體

書出

【某年某月某日、啓陵鄕の某、敢えて之れを言う。】

本文

状況説明

【……啓陵】陵鄕に【……】、粟を載す[i]

[ii]、城旦・舂[iii]を食する莫(な)く[iv]、官【……】有り【……】(或いは「官又た【……】」)

用件

【……。[v]

書止

敢えて之れを言う。

附記

集配記録

【……。】

作成記録

【……。】

[i] 載粟、ここでは啓陵郷からの積み出しを指すと考えられる。

[ii] ここの官とは恐らく郷から司空もしくは倉を指すと思われる。

[iii] 簡8-1515正には、羽取りのために司空から舂と白粲が派遣されたことがみえるが、本簡の「城旦舂」は、載粟のために司空から派遣された労働力と推測される。他に舂が「載粟」に従事する記録が作徒簿等に見えないことから、何かの付随的業務のために城旦と一緒に派遣されたとも考えられる。また、管理業務としては「載粟」は倉の管轄ではあるが、刑徒労働としては「載粟」は現在司空の作徒簿にしか確認できない。

[iv] 啓陵郷にて労働に従事する刑徒の給食については、二つの方法が考えられる。司空の作徒簿では、「某郷に付す」と記録されている労働力は、一時郷の管轄となるため、郷から直接に給食を受けると考えられる。それと関連する出納証明文書は簡8-1576と簡9-1120にみえる。簡9-1120では、啓陵郷嗇夫の敬が、「都倉の付したる粟」を出納して、城旦と隷臣に食していることが確認される。一方、司空等の作徒簿に直接に「載粟」と記されている労働力については、管轄は司空にとどまったままであり、給食の責任も本来司空にあると考えられる。「官、食する莫し」とあるのは、司空の管轄ながら司空から給食がなされなかったことを指すと推定される。

なお、啓陵郷は、県廷から遠く離れているが、遠隔地における作業(「載粟輸」8-0162・8-1665・8-0239、「除道沅陵」9-2289、「與庫佐午取桼」J1⑩1170、「助門浅」J1⑩1170、「助田官𥤙」J1⑩1170、「牧馬武陵」8-0688背+8-0199背+9-1895正)、およびその帰還(「歸司空」J⑩19)に関する記述が確かに司空などの作徒簿に見えるほか、給食の運搬を指す「通食」が簡J1⑩1170に、また、責任者が遠方への移動に際して「齎食」することは睡虎地秦簡『秦律十八種』簡45等に確認される。

[v] 本簡の用件は恐らく啓陵郷が司空(?)に代わって載粟のために啓陵郷に派遣された城旦舂に食料を支給したという報告と推測される。啓陵郷における載粟に司空と倉という二つの県官が関わっていることはそれぞれ簡8-0073と簡8-1525に見える。