讀下:8-1560a=b

文書構造

讀み下し文

文書本體

書出

三十一年(前216)後九月庚辰朔辛巳(2日)、遷陵丞の昌(しょう)、倉嗇夫に謂う。

本文

状況説明①

令史の言[i]、辛巳を以て視事しられば、

用件①

律令を以て養[ii]を假(か)せ。

状況説明②

令史の朝が走の啓を襲(つ)げば、

用件②

その符[iii]を定めよ[iv]

書止

它は律令が如くせよ。

附記

送達記錄

後九月辛巳(02)、旦、守府の快、行る

作成記錄

言手す。

[i] 言、人名、官職は令史。本簡の記載内容から、文書発信の当日令史に赴任若しくは昇任したことが判る。

[ii] 養、やしなうこと、中でも炊事すること若しくは炊事に從事する者。『説文解字』食部には、

養,供養也。

養、供養(きょうよう)する也。

という。『公羊傳』宣公十二年に

廝、役、扈、養者數百人。

廝・役・扈・養する者、數百人。

という動詞の用例に對し、何休は、

炊亨(烹)者曰養。

炊烹する者をば養と曰う」

と、養を炊事に從事する者と注釋する。『史記集解』張耳陳餘列傳所引用の韋昭は、「廝養卒」の「廝養」を

析薪爲廝,炊烹爲養。

薪を析(さ)くは廝と爲し、炊烹するは養と爲す。

と説明する。『爲獄等狀』には、

053     (前略)猩獨居舍爲養,達與僕徒時(蒔)等謀埱冢。不告猩,冢巳(已)勶(徹),分器,乃告

054   猩。(後略)

猩は獨り舍に居りて養を爲し、達、僕徒の蒔(し)等と與(とも)に冢を埱(ほ)らんことを謀る。猩に(盜掘の計畫を)告げず、冢已に徹し、器を分ちて、乃(はじ)めて猩に告ぐ。

と、盜賊集團にも炊事係を置いていた狀況が窺える。『秦律十八種』に

072   都官有秩吏及離官嗇夫,養各一人,其佐、史與共養,十人,車牛一兩(輛),見牛者一人。都官之佐、史宂者,十人,養一人,

073   十五人,車牛一兩(輛),見牛者一人。不盈十人者,各與其官長共養、車牛。(後略)

都官の有秩の吏及び離官の嗇夫は、養、各々一人。その佐・史は、與(とも)に養を共(とも)にす。十人に、車牛一輛 、牛を見(みまも)る者、一人。都官の佐・史の宂なる者は、十人に、養一人、十五人に、車牛一輛、牛を見る者一人。

というように都官に關わる明文規定が現存することから、秦律では、吏の職位に應じて所定の人數の養が支給されていたと考えられるが、仕事内容は、狹義の炊事のほか、身の回り・暮らしの世話を廣く含んでいたとも推測される。また、吏の養は隸臣が擔當するのが原則であったと考えられる。嶽麓秦簡(肆)の律令簡牘には、次の關連規定が見える。

154   ●䌛(徭)律曰:毋敢倳(使)叚(假)典居旬于官府;毋令士五(伍)爲吏養、養馬;(後略)

165   ●倉律曰:毋以隸妾爲吏僕、養、官【守】府┛,隸臣少,不足以給僕、養,以居貲責給之;及且令以隸妾爲吏僕、

166   養、官守府,有隸臣,輒伐〈代〉之┛。倉廚守府如故。

[iii] 符、割符、證據文書の一種。『説文解字』竹部には、

符,信也。漢制以竹長六寸,分而相合。

符、信なり。漢制、竹の長き六寸を以て、分ちて相合するなり。

という。秦漢の簡牘史料では、國家による人の所屬もしくは移動の管理に關わる用例が多く見られる。『秦律雜抄』には、除吏律の一部として

004     (前略)游士在,亡符,居縣貲

005     一甲;卒歲,責之。(後略)

游士在りて、符亡くんば、居る縣、一甲を貲る。歲を卒(お)えて之れを責(せ)む。

と、本籍地を離れた「游士」が「符」を持たないのにその取締りを怠った滯在先の縣を處罰する規定が收錄されている。嶽麓秦簡四の律令簡牘には、

177   ●奔敬(警)律曰:先粼黔首當奔敬(警)者,爲五寸符,人一,右在〖縣官〗,左在黔首,黔首佩之節(卽)奔敬(警)┛。諸挾符者皆奔敬(警)故

178   儌外盜徹所,合符焉,以譔(選)伍之。黔首老弱及𤵸(癃)病,不可令奔敬(警)者,牒書署其故,勿予符。

と、緊急時に防備に向う黔首を組織するために「五寸符」を用いることを定めている。西北漢簡では、

建武桼(七)年六月庚午,領甲渠候職門下督盜賊  敢言之:新除第廿一  E.P.F22:169,A8

燧長常業代休燧長薛隆。迺丁卯餔時到官,不持府符。●謹驗問,隆        E.P.F22:170,A8

辭:今月四日食時受府符詣候官,行到遮虜,河水盛浴,渡失亡符水中。案:隆丙寅  E.P.F22:171,A8

受符,丁卯到官。敢言之。  E.P.F22:172,A8

建武七年六月庚午、甲渠候が職を領するの門下督盜賊  、敢えて之れを言う。新たに除せられし第廿一燧長の常業、休む燧長の薛隆に代わる。迺る丁卯餔時、(隆、)官に到るも、府が符を持たず。●謹みて驗問するに、隆、辭すらく、今月四日食時、府が符を受けて候官に詣るも、行きて遮虜に到り、河水盛浴(?)にして、渡りて符を水中に失亡せり。案ずるに、隆、丙寅に符を受けて丁卯に官に到れり。敢えて之れを言う。

と、

甲渠鄣候◎

己未下餔遣

十一月己未,府告甲渠鄣候:遣新除第四燧長刑鳳之官。符到,令鳳乘第三〖燧〗、遣

騎士召戎詣吞北,乘鳳燧。遣鳳日時在檢中。到,課言。

   

E.P.F22:475

甲渠鄣候(宛て)。己未下餔(の時)遣わせり。十一月己未、府、甲渠鄣候に告ぐ。新たに除せる第四燧長の刑鳳を遣わして官に之かしむ。符到らば、鳳に令して第三燧に乘ぜしめ、騎士の召戎を遣わして吞北に詣りて鳳が燧に乘ぜしめよ。鳳を遣わすの日時は檢中に在り。到らば、課して言え。

という甲渠候官出土の簡牘によって、燧長等の役人が赴任や離任に際して、身分證明として符を持參しなければならなかった實態が分かる。本簡においても、令史の朝から令史の言へといった配置替えに伴い逐一符の書替が行われるところに、人の移動に對する嚴格な法規制の一斑が窺える。敦煌漢簡に

九月辛亥,步昌候長持第七符過田。  1579

九月辛亥、步昌候長、第七符を持ちて田を過ぐ。

八月庚申,候史持第卌符東迹。     1602

八月庚申、候史、第卌符を持ちて東迹す。

とあることから、役人が外出を伴う業務にも符を携帶していた事實が分かる。公務による迅速な關所通過のためには、肩水金關漢簡に

元鳳二年二月癸卯,居延與金關爲出入六寸符券。齒百,

從第一至千。左居官,右移金關。符合以從事。第九百五十九。    73EJT26:16

元鳳二年二月癸卯、居延、金關と與(とも)に出入六寸符券を爲る。齒は百、第一より千に至る。左は官に居り、右は金關に移す。符合せば以て從事せよ。第九百五十九。           73EJT26:16

と見えるように、予め關所に符の片方が送付され、持參したもう片方との照合によって出入が許可される仕組みが用意されている。また、役人の家族の任地への移動もしくは滯在の管理には、

橐他通朢隧長成褒

建平三年五月家屬符。

妻大女觻得當富里成虞,年廿六。   

子小女侯,年一歲。

車二兩。

用牛二頭。

馬一匹。

弟婦孟君,年十五。

弟婦君始,年廿四。

小女請□,年二歲。

弟婦君給,年廿五。

   

73EJT03:089

橐他通朢隧長の成褒、建平三年五月の家屬符。妻の大女、觻得當富里の成虞、年は二十六。子の小女の侯、年は一歲。弟婦の孟君、年は十五。弟婦の君始、年は二十四。小女の請□、年は二歲。弟婦の君給,年は二十五。

という「家屬符」が用いられていた。

なお、人と共に移動する物品の監視・管理にも符が用いられることは前揭の「家屬符」からも判るが、例えば『二年律令』には

074   盜出財物于邊關、徼,及吏部、主智(知)而出者,皆與盜同灋(法)。弗智(知),罰金四两。使者所以出,必有符致。毋(無)符致,

075   吏智(知)而出之,亦與盜同灋(法)。

盜(ひそ)かに財物を邊關・徼より出だす(もの)、及び吏の部・主する(ものにして)知りて出だす者は、皆な盜と法を同じくす。知らずんば、金四两を罰す。使者の以て出だす所は、必ず符致有るべし。符致なきに、吏知りてこれを出だすもまた盜と法を同じくす。

というように、辺境の関所からの財物の持出制限に符致を用いる規定がある。

[iv] 定符、定は、さだめる・確定する意(簡8-0144+8-0136注?參照)、符は割符(前注參照)、ここでは、新たに符が作成されるのではなく、既存の符の書替を指すと考えられる。具體的には、「令史の朝が走の啓」という記載は「令史の言が養の啓」に改められると考えられる。走は倉によって管理されるが、「廷走」もしくは「吏走」の職務に從事するに當たり、倉の直接監視から離れるので、その移動が正當な職務遂行に起因し、「亡」という逃亡罪を構成しない證明として「符」が用いられたと推定される。令史の言が令史の朝から走を繼承するような場合にも逐一符の書替が行われるところに、人の移動に對する嚴格な法規制の一斑が窺える。なお、定が書替の意味で用いられる用例としては、8-1518+8-1490の「定簿」も擧げられる。