文書構造 |
讀み下し文 |
|
文書本體 |
書出 |
三十四年(214)後九月壬辰朔辛酉(30)[i]、遷陵守丞の茲(じ)、敢えて之れを言う。 |
本文 |
||
書止 |
敢えて之れを言う。 |
|
附記 |
集配記録 |
十月己卯(18)、旦、令佐の平、行る。 |
作成記録 |
平手す。 |
[i] 始皇帝三四年後九月の朔日は壬辰、原文の「戌」は「辰」の誤り。按ずるに、本文書の發行日となっている後九月辛酉は、閏九月三十日で、年度の末日に當たる。送達記錄は(三五年)十月己卯となっていることから、實際の作成日も、十月己卯と推定される。卽ち、新年度に入ってから、本來舊年度に上呈すべき文書の日付だけを舊年度の末日に僞ったが、十月の朔日の壬戌に引きずられて、「辰」を「戌」に誤ったと考えられる。
[ii] 道里、道路の里程、つまり道程・交通路の距離。『漢書』匈奴傳には、
計其道里,一年尚未集合,兵先至者聚居暴露,師老械弊,勢不可用
其の道里を計るに、一年尚お未だ集合せず、兵の先に至る者は、聚居暴露し、師老(つか)れ械弊(やぶ)れ、勢として用うべからず。
と、王莽の匈奴遠征を諫める嚴尤の言葉の中に、距離の意味で「道里」が使われている。また、馬圈灣出土の敦煌漢簡と1970年出土の居延漢簡には、次のように「道里簿」という標題を持つ簡が見える。
隧傅天田道里簿(簿)一。
明隧天田五里其二里,煎都塞三里,亭以東皆沙石,井深十丈五尺。 1035B
隧傅天田道里簿(簿)一。
明隧天田五里其二里,煎都塞三里,亭以東皆沙石,井深十丈五尺。
亭閒道里簿。
去第四燧九百奇百一十七步。
去河二百卌(四十)三步。
□廣二百二步。 E.P.S4.T2:159,P1
【……】亭閒の道里簿。 【……】
【……】第四燧を去ること九百奇百一十七步。 【……】
【……】河を去ること二百四十三步。 【……】
【……】□廣きこと二百二步。 【……】
敦煌と居延の「道里簿」が極めてローカルな道里を示しているのに對し、里耶秦簡の第十六層や第十七層に含まれる所謂「里程簡」には、郡を跨る長距離の交通路も含まれる。例えば、簡J1⑰14には次のように記されている。
□陽到頓丘百八十四里,
頓丘到虛百卌六里,
虛到衍氏百九十五里,
衍氏到啓封三百五里,
啓封到長武九十三里,
長武到焉陵八十七里,
焉陵到許九十八里, J1⑰14正
泰凡七千七百廿二里 J1⑰14背
□陽より頓丘に到るは百八十四里、 【……】
頓丘より虛に到るは百卌六里、 【……】
虛より衍氏に到るは百九十五里、 【……】
衍氏より啓封に到るは三百五里、 【……】
啓封より長武に到るは九十三里、 【……】
長武より焉陵に到るは八十七里、 【……】
焉陵より許に到るは九十八里、 【……】 J1⑰14正
泰凡(おおよそ)七千七百廿二里。 【……】 J1⑰14背
遷陵縣でも、三十四年度に管轄區域内に變更があった場合には、「道里簿」に類似した資料を上級機關に提出し、それを更に取り纏めて報告する形で咸陽に全國の交通網に關する情報が集められたと推測される。
[iii] 變更、蠻は變に通じ、變更は現代の「變更」に同じ。正確な制度的背景は未詳ではあるが、本簡から、道里について定期的に報告する義務が地方官に課せられたことが判明する。本文書の發信期日が年度最後の月の末日となっていることから、年度ごとに變更の有無及び變更のあった場合にはその内容を報告する定めとなっていたと推定される。なお、「蠻」が「變」に通じる證據は『奏讞書』事案一の次の記述から得られる。
004 詰毋憂:律,變(蠻)夷男子歳出賨錢,以當䌛(徭)賦,非曰勿令爲屯也。(後略)
毋憂を詰(といつ)むるに、律には、蠻夷の男子、歳(とし)ごとに賨錢を出だし、以て徭賦に當つ(とあり)、令して屯と爲さしむる勿(な)かれと曰うに非らざる也。