文書構造 |
讀み下し文 |
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文書本体 |
出納物品 |
【粟米……。】 |
本文 |
【三十一(216)[i]】年三月癸丑(01)、倉守の武・史の感・稟人の堂、出だし、使小隸臣就に稟(さず)く。 |
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積算根拠 |
-(?) |
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附記 |
監查記録 |
令史 |
作成記録 |
【感手す。】 |
[i] 本簡の作成年代は、倉守の武・史の感・稟人の堂という三人の組み合わせに基づいて三十一年と推定される。案ずるに「武」という名の倉嗇夫若しくは守を調べると、「倉武」、つまり倉の嗇夫を務める武は、秦始皇二十七年十二月から二十八年にかけて確認され、共に史料上現れる倉佐(史)や稟人は「辰」・「壬」・「尚」や「陵」で、本簡に見える「感」や「堂」とは異なる。次に、三十一年正月から、本簡と同じく倉史の感とともに「倉守の武」が史料上姿を現す。「守武」・「史感」という組み合わせは、正月から三月まで続く。中には、一度のみ武の官職は「倉守」ではなく、「倉」(=嗇夫)と表記される(簡8-0760)が、恐らく「守」の一字が脱落していると推定される。その後暫く空白があるが、同年後九月に今一度「倉守」(簡8-1905+9-0309+9-0976)として見えつつも、翌年の三月には田官守に移動している。一方、倉史の感という人物は、二十九年三月(8-1690)に「倉史」として初めて史料上現れてから、同年九月には一度(戸曹?)令史(8-1511正・8-0645正/背、假令史?)を務めつつ、三十一年十一月から、同年後九月まで、四月と七月を除いて毎月少なくとも一度「倉史」として見えるが、その後は暦日によって確認できる史料から姿を消す。また、稟人の「堂」は、三十一年十二月(9-2334)が初出で、その後稟人の「援」と入れ替わりつつも、同年九月(簡8-0211)まで八回ほど史料上現れる。なお、監査を担当した令史のについても、三十年九月に一度少内佐として史料上現れ、三十一年十二月から正月にかけて都合六回ほど県廷の令史としてその存在が確認され、上記の紀年復元と矛盾しない経歴が判明している。