六月乙丑 [i] 、獄佐の瞫、戌を訊ぬるに、戌、私かに□中の吏が益僕を留め,人ごとに【……】
[i] 本簡の作成年月は、秦始皇三十五年六月の可能性がある。案ずるに、瞫という人物は、三十五年四月には県廷の文書に携わる令史もしくは令佐として二回ほど、二世元年十一月には倉嗇夫として三回ほど史料上現れる。一方、戌という人物は、本簡の記載によれば、吏僕の違法な使役のため取り調べを受けており、8-0533に「有罪爲鬼薪」として見える「戌」と同一の人と考えて差し支えあるまい。戌の官職は不明であるが、役人が業務関連の犯罪を犯す時には、周辺の役人に簡単に知られることから、役所の中に共犯者がいることは珍しくない。そこで、戌とともに8-0533に名を連ねている者の中に、城旦の瘳という人物が見える点が目を引く。秦始皇三十四年後九月から三十五年六月にかけて、少内佐に、また三十五年九月には、令史もしくは令佐にそれと同名の者が見えており、その後史料から姿を消してしまう。この人物が戌の共犯者として三十五年九月以降免職の上城旦に処せられたとすれば、8-0533に戌とともに城旦の瘳が登場することについても合理的な説明がつく。このように、戌の処罰と瘳の経歴を書止つけば、本簡の「六月乙丑」は、「三十五年六月戊午朔乙丑」を指すと推測される。「乙丑」は、当月の八日に当たる。なお、遷陵県設置期間中、「六月乙丑」は、二十五年六月丙辰朔乙丑(10)・二十六年六月辛亥朔乙丑(15)・二十九年六月癸亥朔乙丑(05)・三十二年乙巳朔乙丑(21)・三十三年六月庚子朔乙丑(26)・三十五年六月戊午朔乙丑(08)・三十六年六月壬子朔乙丑(14)・三十七年丁未六月乙丑(19)の八例が確認される。また、感という人物が倉史を務めた三十一年後九月以前には、上記の瘳と同名の隷臣が史料上現れるが、三十四年から三十五年まで少内佐や令佐もしくは令史を務めた瘳とは当然別人と見なければならない。
ちなみに、官員が刑徒身分に貶められる事例は、簡9-1516に見えており、司空色が鬼薪に処せられたことになっている。