讀下:8-0722a=b

文書構造

讀み下し文

添付書類

文書本體

書出

【三十年(217)/三十二年(215)某月某日朔某日[i]、某職某人、敢えて之れを言う。】

本文

資料根據

【……】恆に【……に】會【……】せよ。

主文

【……。】

書止

【敢えて】之れを【言う。】

附記

集配記録

(某月)某日某時、某人/行る。(某半/發。

作成記録

【某手す。】

文書本體

書出

二月癸丑(25/06)、遷陵【……、敢えて之れを言う。】

本文

【……。】

書止

敢えて之れを言う。

附記

集配記録

【(某月)某日某時、某人(某處に)行る。

作成記録

尚手す

[i] 「二月癸丑」という記載と尚の官職に基づいて推定するに、遷陵県が設置された秦王政二十五年から秦の滅亡まで、「二月癸丑」の日が出現するのは、秦始皇二十六年(二月癸丑朔)・三十年(二月己丑朔)・三十二年(二月丁未朔)・三十三年(二月壬寅朔)・三十七年(二月己酉朔)であるが、尚という人については、官職と紀年が確定できる史料が24もあり、その中で、二十六年二月から二十八年八月までは鄕佐もしくは官佐を務め、三十年十二月から三十二年三月までは令史もしくは鄕守を務めることが確認される。また、出現の高い頻度にも拘らず、三十三年以降史料から姿を消すことからは、尚が三十三年以降離職したか県外に転出したと推測される。したがって、尚が令史を務めて県廷の文書作成に関わった「二月癸丑」は、三十年か三十二年ということになる。そして、文書本体の発信者である「遷陵□」は、残画から「遷陵守丞」であると推測される。二十九年一月から三十一年五月にかけては一貫して真丞の昌が文書を処理しており、守丞が登場しない。このことを踏まえれば、「二月癸丑」は三十二年の可能性が高い。なお、直近では三十二年四月九日に、色が守丞を務めている(8-0158)。