讀下:8-0706a+8-0704a=8-0706b+8-0704b

文書構造

讀み下し文

添付書類②

【……課副及食簿】

添付書類①

添付書類(舊文書=「不定者」型)

文書本體

書出

【三十一年(216)某月某日朔□】寅、遷陵守丞の齙、敢えて之れを言う。

本文

状況説明

前日、令史の齮に令して【……課を上さしむるに】、太守が書に曰わく、

課皆な式令[i]に應ぜず。

齮に令して□【……】□課副及び當(まさ)に食すべき人口の數を定め、小大を別ちて食【……簿を】爲(つく)らしめよ。

用件

【……】

【……】□□課副及び食簿を【……して】上さしむ。定められざる【者】有らば、【謁うらくは、齮に令して定めしよ。】

書止

【敢えて之れを言う。】

附記

作成記録

【某手す。】

文書本體

書出

【(某年)某月(某日朔)某日、遷陵守丞の齙、敢えて】之れを言う。

本文

状況説明

守府、丙申(14)・己亥(17)・甲辰(22)に追せり。

用件

復(ま)た【……。】

書止

【敢えて之れを言う。】

附記

集配記録

【某月某日旦[ii]時、都郵人の羽、行(や)る。[iii]

作成記録

【□】手す。

文書本體

書出

【某月某日、遷陵】守丞の、敢えて之れを言う。

状況説明

[iv]は二月辛亥(29[v]追せり

用件

復(ま)た前日【……】を寫し【……。】

書止

【敢えて之れを言う。】

附記

集配記録

【……。】

作成記録

【某手す。】

[i] 式令、式を内容とする令か、式と令か、文法的構造も意味も未詳。南北朝時代以前の傳世文獻や出土資料には、「式令」と斷定できる用例がないようである。『爲吏治官及黔首』簡87には「與它官課,有式令能最」という句が見えるが、正確な讀み方は分からない。一説には、本簡に脱文があり、「太守府の書」の引文は、「課皆不𤻮(應)式。令﹦(令令)〖史〗齮定□(課、皆な式に應ぜず。令史の齮に令して□【……を】定めしめよ)」と釋讀すべしという。

[ii] 文書の書出が簡の正面から追い書きされて文字數が不明なのに對し、集配記録は、背面左上端から記されていると考えられており、殘缺箇所の大小と「時」字から、「某月某日旦食」という六字を補うことができる。

[iii] 添付書類①と②の筆跡が同じことから、背面左端の集配記録が添付書類①に屬することがわかる。文書本體の集配記録は書止の下に追い書きされて、殘缺部分とともに失われたと考えられる。

[iv] 文脈からして、令は、前文の「守府」と同じく、追文書の発行主体を指すに相違ない。「守府」の誤りという可能性が高いが、郡県を問わず長官を指す敬称として「令」が使用されていた可能性も完全には排除できない。

[v] 前文の「丙申・己亥・甲辰」とここの「二月辛亥」は、秦始皇三十一年二月癸未朔14日・17日・22日・29日と推測される。案ずるに、前文で「追」の暦日を干支のみで表しているのに、ここでは「二月」と明記している。それは、恐らく前文では文書の発信日と月が一致しているのに、この文書では、文書発信の月と追を受けた月とが異なるためと考えられる。從って、本文書の発信日は三月の某日なのに対し、添付書類①に収められている上申文書の発信日は、二月にほかならない。遷陵県が秦王政二十五年に設置された点を考慮して歴年二月の干支を調べると、丙申・己亥・甲辰・辛亥の四者が揃うのは、三十年・三十一年・三十四年のみである。日付はそれぞれ秦始皇三十年二月己丑朔8日・11日・16日・23日、三十一年二月癸未朔14日・17日・22日・29日、三十四年二月丙申朔朔日・4日・9日・16日である。太守府による再度の督促を受けて本文書が書かれたことから、追を受けて間隔を置かずに発信されたと考えられるので、二月辛亥が23日もしくは16日になる三十年もしくは三十四年よりも三十一年の可能性が高いと言えよう。

(この注は、追の日付を受け取った日付と理解して推理を行った。追に記された発信日とすれば、三十四年の方が可能性が高くなる。郡の下達文書が届く日数を考慮する必要がある。

また、人名でもう少し詰められないであろうか?)