讀下:8-0657a=b

文書構造

讀み下し文

添付書類②(琅邪守文書)

文書本體

書出

【二十八年(219)五月己[i]】亥朔辛丑(03)、琅邪假守の【□】、敢えて内史・屬邦・郡守[ii]が主に告ぐ。

本文

状況説明

琅邪尉、治[iii]を卽墨に徙し、【……】琅邪守[iv]より【……】四百三十四里。

用件

卒人は、縣官に令して、辟する[v]こと、吏卒の衣用及び卒(そつ)に物故有り當(まさ)に辟・徵・遝(とう)すべき有らば【……】琅邪尉に告げしむべく、琅邪守に告ぐるなかれ。琅邪守に告げば、固より留費[vi]し、且つ輒(ただ)ちに卻けて[vii]吏の當(まさ)に坐すべき者[viii]を論ぜん。

書止

敢えて【主に】告ぐ。

附記

發行形式

【……】郡一書[ix]。●蒼梧尉が印を以て事を行う。

作成記録

洞【手す。】

添付書類①(洞庭守文書)

文書本體

書出

/六月乙未(27)、洞庭守の禮、縣嗇夫に謂う。

用件

書に聽(したが)い從事せよ。都官・軍吏の縣界中に在る者は、各々之れを告げよ。新武陵は、四道[x]を別ち、次を以て別書を傳えよ。寫して洞庭尉に上せ[xi]。皆留むることなかれ。

書止

它は律令が如くせよ。

附記

集配記録

月庚午(03水下五刻、士伍の宕渠(とうきょ)道來邑の疵、以て來る。/朝半(ひら)く。

作成記録

/葆手。

/驕手。

文書本體

書出

八月甲戌(07)、遷陵守丞の膻之(たんし)、敢えて尉官主に告ぐ。

用件

律令を以て從事せよ別書を貳春に傳え、卒長奢官に下せ

書止

附記

集配記録

丙子(09)、旦食、走の郵行(や)る。{文書本體と附記の筆跡の異同は判然とせず。}

作成記録

手す

[i] 「本簡には、①「〼亥朔辛丑」、②六月乙未、③八月甲戌、④八月丙子、⑤八月庚午という五つの曆日がみえる。⑤は殘缺のため先頭の一文字は從來釋讀されていなかったが、わずかに殘った筆畫から「八」と推定し得る。これを手がかりに、まず③④⑤の曆日に注目し、齊國が郡縣化された始皇帝二十六年以降、二世元年の閒で、八月に庚午・甲戌・丙子が含まれる年を絞り込むと、二十六年・二十八年・二十九年・三十五年・三十六年・三十七年・二世元年となる。次に②に注目し、絞り込まれた七つの年に對し、その年の六月に乙未が含まれるという條件を檢討すると、適合するのは二十八年のみとなる。二十八年は五月が己亥朔となり、①にも合致する。從って、當該簡は始皇帝二十八年の文書と考えることができる。

 なお鄭威「里耶簡牘所見秦卽墨考」(『江漢考古』2015―5)は、①②③④の條件を檢討して始皇帝二十七年と二十八年に絞り込み、二十七年八月は甲戌朔となることから、③が「朔日」ないし「甲戌朔」と書かれていないのは、甲戌が朔日ではなかったためと考え、二十七年の可能性を排除して二十八年と結論している。

{⑤が判る以上、別の形でも暦日の計算上二十八年以外の可能性を全て排除することができる。先ず、その月が辛丑の日を含み且つ朔日が「亥」字を含む情況から、昨日は己亥・丁亥・乙亥に限られ、二十五年以降で、六月以前の朔日がその条件を満たすのは、二十八年五月(己亥朔)・二十五年五月(丁亥朔)・三十年六月(丁亥朔)・二十七年四月と六月(乙亥朔)・元年10月(乙亥)のみである。それぞれの年について六月と八月の朔日を調べると、二十五年六月は丙辰朔で、乙未の日を含まない。二十七年八月は甲戌朔で、庚午を含まず、三十年と元年の八月はそれぞれ丙戌朔と庚午朔で、庚午・甲戌・丙子の何れの日も含まない。残りの二十八年八月は戊辰朔で、庚午・甲戌・丙子はそれぞれ初三日・初七日・初九日に当る。干支に序数を附して表に纏めると次のようになる。

某月

6月

8月

年月

朔日

辛丑(38)

朔日

乙未(32)

朔日

庚午(7)/甲戌(11)/丙子(13)

28年5月

己亥(36)

初三日

己巳(6)

二十七日

戊辰(5)

三日/初七日/初九日

25年5月

丁亥(24)

十五日

丙辰(53)

-

-

-

30年6月

丁亥(24)

初九日

丙戌(23)

-/-/-

27年4月

乙亥(12)

二十七日

乙亥(12)

二十日

甲戌(11)

-/初一日/初三日

27年6月

元年10月

辛未(8)

二十五日

庚午(37)

-/-/-

[ii] 郡守、官職名担当。(太守は簡8-0652+8-0067に既出なので、郡守=郡の太守と説明すれば充分。もちろん太守という名称の由来を、守官等と関連付けて説明できるならそれに越したことはないが、史料的に難しいかもしれない。)

[iii] 治、初出。(郡尉の治はすなわち簡8-1517に見える「尉府」。また「治所」(簡8-2149+8-2121注?参照)が臨時の執務場所を指すのに対し、治は恆常的執務場所)

[iv] 琅邪守、琅邪郡の太守、ここでは、太守府、つまり郡治の所在地を指す。……官職名担当(漢代の郡治と卽墨からの距離(「四百三十四里」)とで秦代の郡治が確定もしくは推定できれば、それに関する説明を加えるべし)

[v] 辟、のり・つみ、轉じてつみすること、卽ち立件して責任を追及すること、さらに廣く治める意、卽ち調査・搜査・取り締まり等の意味に使われる。本簡では、刑事事件としての立件を指すか、それとも漠然として調査と處理を指すかは、文脈から必ずしも明らかではない。『詩經』大雅・板には、

民之多辟,無自立辟。

民の辟(つみ)多きは、自ら辟(のり)を立つる無ければなり。

というのに對して、毛傳は

辟,法也。

辟、法なり。

と注釋する。『爾雅』釋詁上には、「辟」を「法」とも「辠(罪)」とも訓ずる。『説文解字』辟部は

辟,法也。从卪、从辛,節制其辠也;从口,用法者也。凡辟之屬皆从辟。

𨐨,治也(段玉裁據經典釋文改爲法)。从辟、从井。『周書』曰:我之不𨐨。

辟、法なり。卪に从い、辛に从い、其の辠を節制する也。口に从うは、法を用うる者也。凡そ辟の屬は、皆な辟に从う。

𨐨、治むる也。辟に从い、井に从う。『周書』に曰わく、我、之れを𨐨めず、と。

というように、「辟」と「𨐨」を區別して揭げるが、段玉裁や朱駿聲等が論證するように、同一の字である。「法」を「罪する」義と解される用例は、

此人雖有百罪,弗法。

此の人、百罪有ると雖も,(これを)法(つみ)せず。

と、『漢書』に見えており、段玉裁の通り原文を「法」字に改めても「罪する」・「おさめる」義に變わりがなかろう。「辟」を直接に「おさめる」と訓ずるのは、『左傳』文公六年の「辟刑獄」の「辟」に對する杜預注の「理」が最初であり、その後『玉篇』に踏襲されている。『説文解字』にも引用されている『尚書』金縢には、

我之弗辟,我無以告我先王。

我、之れを辟(つみ)せずんば、我、以て我が先王に告ぐる無し。

というのに對し、陸德明『經典釋文』は

辟,治也。

辟、(罪を)治むる也。

という。出土資料に目を轉じると、刑事責任の追及は、『奏讞書』と『爲獄等狀』とに用例が見える。『奏讞書』には

137   (前略)好畤辟䦈有鞫。(後略)

好畤、䦈を辟して鞫有り。(後略)

といい、『爲獄等狀』事案一(「癸、瑣相移謀購案」)には、

003   (前略)辟,未斷,未致購。到其甲子,沙羨守驩曰:士五(伍)瑣等捕治等,移鼠(予)癸等。(後略)

辟(つみ)するも未だ斷ぜず、未だ購を致さず 。その甲子に到りて、沙(さ)羨(い)守の驩曰わく、「士伍の瑣等、治等を捕え、癸等に移予したり」、と。

と、事案九(「同、顯盜殺人案」には、

144   訊同:非歸義,可(何)故?同曰:爲吏僕,內爲人庸(傭),恐吏𣪠(繫)辟同。(後略)

同に訊うらく、「歸義に非らざるは、何故ぞ。」同曰わく、「吏僕と爲り、內(ひそ)かに人が傭と爲り、吏、同を繫げて辟(つみ)するを恐る」、と。

という。刑事事案の立件に限らず、廣く調査・搜査等を指す用例も見受けられる。例えば、嶽麓秦簡(四)の律令簡牘に、

135   ●尉卒律曰:黔首將陽及諸亡者,已有奔書及亡毋(無)奔書盈三月者,輒筋〈削〉爵以爲士五(伍)。

137   (前略)鄕官輒上奔書縣廷,廷轉臧(藏)獄;獄史月案計日,盈三月卽辟問鄕

138   官,不出者,輒以令論,削其爵,皆校計之。

とみえる「辟問」は、まだ逃亡者の處罰を念頭に置いた調査の可能性もあろうが、同じ律令簡牘に

140   尉卒律曰:爲計,鄕嗇夫及典、老月辟其鄕里之入𣫃(穀)、徙除及死亡者,謁于尉,尉月牒部之,到十月乃

141   比其牒,里相就殹(也)以會計。黔[首]之闌亡者卒歲而不歸,紬其計籍,書其初亡之年月于紬,善臧(藏)以戒其得。

尉卒律に曰わく、計を爲(おさ)むるに、鄕嗇夫及び典・老、月ごとに、其の鄕里の穀を入れ、徙除し及び死亡する者を辟(と)い、尉に謁(つ)ぐ。尉、月ごとに牒もて之れを部(す)べ、十月に到りては乃ち其の牒を比べ、里ごとに相就かしめて以て會計す。黔首の闌亡する者、歲を卒うるも歸らざるは、其の計を籍より紬(ひきつづ)り,其の初めて亡ぐるの年月を紬(つづ)りに書き、善く藏して以て其の得(とら)えらるるを戒む。

とみえる「辟」には、刑事事案との關連性が確認されない。このような用例は、『慧琳音義』卷十所引の『字書』に從って直接に「問」という訓詁で解釋もできそうであるが、むしろ「治める」という訓詁に從い、法に則った事務の處理・取扱いと捉えた方が字の原義に近いように思われる。居延漢簡等に見える「辟」字も多く廣義の「治」と解釋すべき樣に思われる。例えば、1930年代の居延漢簡には、

當曲燧長武持府所辟火報詣官。九月丁未日出入。     59.36,A8

當曲燧長の武、府の辟する所の火報を持して官に詣る。九月丁未の日出に入る。    59.36,A8

といい、懸泉置漢簡には、

建昭三年七月乙卯朔丁巳,敦煌太守彊、長史淵、丞敞告守部司馬、千人、司馬丞、假司馬、千人,

謂縣詔書,候者數言有虜兵氣,其驚(警)烽火,遠候望,察動靜,謹推辟已前下方秋旁    Ⅰ90DXT0116②:54

建昭三年七月乙卯朔丁巳、敦煌太守の彊・長史の淵・丞の敞、守部司馬・千人・司馬丞・假司馬・(假)千人に告げ、縣に謂う。詔書に、候者數(しばしば)虜兵の氣有りと言う(とあり)。其れ烽火を警(いまし)め、候望を遠くし、動靜を察し、推辟を謹しめよ。已に前に下方秋旁      Ⅰ90DXT0116②:54

という。「警烽火」・「遠候望」・「察動靜」と竝ぶ「謹推辟」は、漠然として取締りを嚴重にすることをいうと考えられる。

[vi] 留費、高村さんは「費」を県名と捉える。漢代には、東海郡下、東海都尉の治所となった費県がある。一方、普通動詞としては、精々《孫子:火攻篇》の

夫戰勝攻取,而不修其功者,凶,命曰費留。

曹操注:若水之留不復還也。或曰,賞不以時,但費留也,賞善不踰日也。

という用例しかない。一般には、「費留」は「為惜費、不及時論功行賞」と説明される。

[vii] 卻、しりぞける、上級機関が文書を却下する意(解題参照)。

[viii] 當坐者、坐は獄に坐することから轉じて譴責・法的責任追及を受ける意(簡8-0144+8-0136注?參照)、當に坐すべき者は、違法行爲等について法的責任を負う者を指す。『二年律令』には、

068     劫人、謀劫人求錢財,雖未得若未劫,皆磔之。完其妻子,以爲城旦舂。其妻子當坐者偏(徧)捕,若告吏,吏

069     捕得之,皆除坐者罪。

人を劫(かすめと)る(もの)、人を劫りて錢財を求めんと謀かるは、未だ得ず若しくは未だ劫らずと雖も、皆なこれを磔し、その妻子を完(まっと)うして以て城旦舂と爲す。それ、妻子まさに坐すべき者徧く捕え若しくは吏に告げて吏これを捕得するは、皆な坐する者の罪を除く。

と、『奏讞書』には、

143     (前略)義死,黔首當坐者多,皆榣(猶)恐吏罪之,有(又)別離居

144     山谷中。(後略)

義死し、黔首の當に坐すべき者多く、皆な猶お吏の之れを罪するを恐れ、又た別離して山谷中に居る。

という類例が見える。

[ix] 郡一書、郡ごとに文書一通、つまり一通の文書を郡から郡へと遞傳して回覽するのではなく、郡ごとに文書一通を發行する意。簡8-0159には、「道一書」(經路ごとに一書)と、簡J1⑫1784には、「縣一書」(縣ごとに一書)とあることから、同列の機關に宛てた文書の發行形式に遞傳もしくは回覽方式と一齊發行形式の存することが判る。なお、「告」と「郡」の閒には、簡下端の殘缺の大きさからして一字が缺けており、文脈からして「屬邦」の「邦」が書かれていたと推測される。つまり、この一文は、内史のほかに屬邦と郡ごとに個別に文書一通を發行することを示す。

[x] 道、みち、ここでは、文書を遞送する經路を指す。「新武陵別四道」とは、新武陵から、四つの經路に分かれて文書を各地に遞送することをいう。

[xi] 案語(文意)。(写上の語義には問題がないか、ここは、送達状況を把握するために、逓送の過程で、文書を受け取った機関に全てその都度文書の写しを郡尉に上呈させる意味か)