文書構造 |
讀み下し文 |
||
添付書類②(召喚狀) |
標題 |
||
本文 |
尉の乘城【……】卒眞簿を【……せよ。】 |
||
添付書類① (僰道平行文書) |
文書本體 |
書出 |
二十七年(220)八月甲戌朔壬辰(19)、酉陽の具獄獄史[iii]の啓、敢えて【之れを】言う。 |
用件 |
【……。】 |
||
附記 |
|||
書止 |
敢えて之れを言う。 |
||
附記 |
送達記錄 |
八月癸巳(20)、水下四刻、走の賢、以て來る。/行半(ひら)く。 |
|
作成記錄 |
【某手す。】 |
||
遷陵縣下行文書 |
書出 |
八月癸巳(20)、遷陵守丞の陘、司空主に告ぐ。 |
|
用件 |
書に聽(したが)い從事せよ。 |
||
書止 |
【它は律令の如くせよ。】 |
||
附記 |
送達記錄 |
【卽(ただ)ちに?、某職】の起【に令して】、司空に行【らしむ】。 |
|
作成記錄 |
【某手す。】[ix] |
[i] 或遝、遝は、およぶ・およぼす義から轉じて呼び出す・召喚する意(簡8-0144+8-0136注?參照)、或遝は、召喚狀もしくはその送達文書の封緘簡の上書きに用いられる法律用語。「或」字は、『周禮』考工記・人の鄭玄注等で、「有」と訓ぜられ、意味論的には「有」と明確に區別することが困難であるが、「或」が『秦律十八種』や『法律答問』等で法律用語として多用される點が注目に値する。里耶秦簡の用例でも、簡8-1343+8-0904や簡8-0144+8-0136に見える「有遝」が、召喚という事實があったことを示すのに對して、「或遝」は召喚という法律行爲そのものを表すと考えられる。
[ii] 廣韻には、望發切(月韻,擧目使人)・許劣切(薛韻,擧目使人)・七役切(昔韻,小動)・況逼切(職韻,擧目使人)という四つの字音があるが、説文解字の「讀若𩖶」に従って許劣切で読んだ。
[iii] 獄史、官職名担当。(具獄は簡5-01に既出、ここでは、担当範囲を示す修飾語として用いられる点を明示すれば充分であろう。)
[iv] 治所、……(簡?を参照)。ここでは、酉陽の具獄獄史の啓が遷陵県で臨時に設置した執務場所、つまり具獄獄史の治所を指す。
[v] 須、まつ、主語は發話者(若しくは文書の發信者)、前文に述べた發話者の指示・禁止や依賴等に對して目的や理由を示す。1930年代の居延漢簡には、
詣官,會辛亥旦。須有所問,毋以它爲解。 二五九.一一
官に詣(いた)れ。辛亥の旦(あさ)に會せよ。問う所有るを須(ま)てば、它を以て解と爲すなかれ。
というように、出頭命令について、事情聽取という目的を述べている。また、『奏讞書』には、
141 (前略)氏曰:新黔
142 首戰北當捕者,與後所發新黔首籍幷,未有以別智(知)┛。䦈主,遝未來,獄留須䦈。
氏曰わく、新黔首の戰北して當に捕うべき者は、後に發(おこ)す所の新黔首が籍と與(とも)に幷わせられ、未だ以て別知する有らず。䦈、(籍を)主り、遝するも未だ來らざれば、獄留まりて䦈を須つ。
と、刑事事件を迅速に處理しなかった責任を巡って取り調べを受けた獄史の氏が、重要な參考人の䦈の出頭を待っていたという理由を述べている。本簡においても、殘缺箇所に述べられたと考えられる關係者召喚もしくは移送等の依賴について、司法手續の進行が妨げられ依賴業務の速やかな實行を待っているという説明に、「須」字が用いられている。
須については、鷹取の説を批判的検討して史料メモを書くべし!
[vi] 封、とじる・封緘すること、轉じて封印が捺してある封泥。『秦律十八種』には、
171 嗇夫免而效,效者見其封及隄(題),以效之,勿度縣,唯倉所自封印是度縣。(後略)
嗇夫免じて效せられば、效する者は、其の封及び題を見て、以て之れを效し、度縣することなかれ。唯だ、倉の自ら封印せし所、是れ度縣せよ。
といい、『二年律令』には、
179 當收者,令獄史與官嗇夫、吏雜封之,上其物數縣廷,以臨計。
當に收すべき者は、獄史に令して官嗇夫・吏と與(とも)に、雜えて之れを封じ、其の物數を縣廷に上し、以て計に臨む。
という。後者の「封」は動詞で、前者の「封印」と同樣に、印を以て封ずることをいう。前者の「封」は、名詞で、封印に用いられた封泥を指す。また、居延漢簡の簡210.26(A8)には、
戍卒河東郡安邑尊德里張常〼
□衣橐封以私印
というように、本簡と同樣に、封泥に捺してある印章が明記されている。
[vii] 本文書の發信者である獄史は、官印を支給されていないと考えられる。滯在先の遷陵縣で遷陵丞の官印を借りて遷陵縣宛ての文書を封緘したと推定される。類似した表現は、簡8-0078と8-2166にも觀察される。簡8-0078では、洞庭假卒史が發信した文書が同日に遷陵縣で受領・開封されていることから、卒史が滯在先の遷陵縣で遷陵丞の官印を借りて遷陵縣宛ての文書を封緘したとみられる。
なお、酉陽の獄史もしくは獄佐が遷陵縣に滯在していたことは、簡8-1295や8-2049等のように、それらを受信者とする封緘簡牘の出土によっても裏付けられる。
[viii] ここの殘缺部分は、酉陽の獄史が遷陵縣丞の印を借りて文書を發信した理由を述べている。「有傳」の二字は、簡8-0078の文例に基づいて補った。
[ix] 本簡の文書の流れは、「酉陽獄史→遷陵守丞→遷陵司空」である。その前段階として、二十六年三月には、遷陵司空の𥄎等に對して召喚が行われ、卒に關わる簿籍の原本の提出などが求められた。遷陵縣に當てた酉陽獄史の文書から判るように、𥄎等の出頭若しくは簿籍の提出は、酉陽の司法事件と關わりを持つが、酉陽縣の要請が一年餘り無視されてしまったため、酉陽縣の獄史が、召喚狀の寫しを添えて、遷陵縣に對應を促し、遷陵縣は卽座に司空に處理を指示した。酉陽縣の文書が發信の翌日に遷陵縣廷に到着した事實から推測するに、具獄獄史の啓は、「具獄」の業務との關連で、遷陵縣に滯在していた可能性が高い。