釈読問題8-2280

基礎形態:……

加工形態:……

特記事項:

本簡の作成年月は、秦始皇三十二年四月の可能性が高いと考えられる。案ずるに、遷陵県が設置された秦王政二十五年から秦国が滅亡するまで、「二年」という記述を伴う紀年は秦始皇三十二年と二世二年のみであり、目下里耶秦簡の中で確認できる最も晩い暦日は二世の「二年十月己巳朔朔日」である。前年七月には、すでに戍卒の陳勝らが反乱を起こし「張楚」を建てており、二年の冬には、関中の「戲」まで数十万と号する大軍を率いて都を伺う勢いを見せた。そこから四か月以上も経った初夏の四月に遷陵県が行政活動を継続していた可能性は、僻地とは言え、必ずしも高くない。なお、三十二年四月は丙午朔となっており、朔日のほか、丙辰(11日)・丙寅(21日)の可能性も考えられる。一方、二世二年四月は丙寅朔で、朔日のほか、丙子(11日)・丙戌(21日)の可能性がある。

  

第一行

“二”:字前無字,原釋、校釋作“□二”,據圖版改釋。