釈読問題8-1039+8-0222
基礎形態:……
加工形態:……
特記事項:
本簡綴合據何有祖〈里耶秦簡牘綴合(六則)〉。
第一行
“卅(三十)年月丙子朔﹦(朔朔)日”:本簡は習書であるため、記載の暦日が現実の年月干支かどうかについて疑問が残るが、文面から本簡の形成について以下の推測が可能なように思われる。まず、第一行の記載は、月に関する記述が欠けている点を除けば、安陽守丞を発信者とする文書の様式と一致する。さらに、第二行の「言之」は同様な文書の書出若しくは書止の文言と一致する。一方、第二行の「陽」以下の五字及び第三行の「計」字以下の七字は、有意義な文章を形成せず、明らかに文字の練習に過ぎない。そこから推測するに、本簡は本来文書の作成を意図して書き出したものの、月の脱落に気づいて習書に転用したものという可能性が高い。次に、失敗に終わった文書作成の年月日を推定するに、遷陵県の設置期間中「丙子朔」となる年月は秦始皇二十七年(220)二月、三十二年(215)五月、三十七年(210)七月の三回のみであるが、本簡の記載はそれら三者の何れとも明らかに関係がない。第三行に「六月丙子」という形で、再び「丙子」という干支が登場することを考え合わせると、第一行の「丙子朔﹦(朔朔)日」は本来「六月某朔丙子」に作るべきところ誤記された文字と推測される。三十年六月は丁亥朔のため、丙子の日は存在しない。二十五年と三十五年はそれぞれ丙辰朔と戊午朔で、丙子は二十一日若しくは十九日に当たる。第一行が文書の作成を意図したものであるという前提からすれば、二十五年の時点が、紀年が三十に誤る可能性が低く、三十五年の時点で現存記載の通り誤記された可能性が高い。暦日を三十五年六月戊午朔丙子とすれば、それは紀元前二一二年六月二十一日となる。