「バルカン戦争後のバルカン地図」
縮尺:86万4000分の1
刊行年:1914年(ヒジュラ暦1330年)
言語:オスマン語

【この地図の特徴】
 地図のタイトルは「バルカン戦争後のバルカン人たちの国境:オスマン帝国ヨーロッパ領域―ブルガリア―セルビアとギリシアの国境―マケドニアとトラキア―モンテネグロとアルバニア」で、イスタンブルの書店主が発行人です。
 バルカン地域の目まぐるしい国境線変更の歴史の一断面が描かれています。
 右のオレンジ色部分がオスマン帝国領域、中央の緑色部分がブルガリア、青い部分が「新セルビア」、黄色部分がギリシア、左のオリーブ色部分がモンテネグロ、赤い部分がアルバニアです。右上の灰色部分はルーマニア、左上の無色部分がボスニア・ヘルツェゴヴィナです。

【この地図の見どころ】
 オスマン帝国は14世紀からバルカン地域の領土を拡大し、17世紀にはこの地図の空間をはるかに超えてハンガリーまで統治しましたが、17世紀末から退潮に転じ、次々と領土を失いました。すでに1830年のロンドン会議でギリシアの独立、1878年のベルリン会議でセルビアとモンテネグロの独立が国際的に承認されており、ブルガリアは1908年に、アルバニアは第1次バルカン戦争後の1912年に独立を宣言しました。
 こうした独立はすべて大小の戦争を伴いました。そしてこの地図が描かれた年から始まった第一次世界大戦により、オスマン帝国の後継国家トルコのバルカン地域における国境線が確定しました。ブルガリアはエーゲ海への出口を失い、その部分はギリシア領となりました。またセルビアはこの地図ではコソヴォとマケドニアを版図に入れて「新セルビア」とありますが、モンテネグロやボスニア・ヘルツェゴヴィナ、さらに北のクロアチア、スロヴェニアも含めてユーゴスラビア連邦を形成した後、1990年代の内戦を経て再度分裂、現在はマケドニアとコソヴォが独立国家として存在します。他にも説明を要することが多々ありますが、割愛します。「民族」「国家」「エスニシティ」といった問題を考えるにあたって、地球上で最も豊かな教材を提供してくれる地域の一つです。
 そして忘れてはならないのは、この地域で数世紀間にわたって行政言語としてオスマン語が使用されたことです。この地図は、現地で今や使われていない文字によりかつての地名を克明に記載している点で、失われた記憶を回復するものです。さらにGoogle Mapsと重ね合わせれば現在の地名と比較対照が可能になる点で、研究面でも優れて役に立つものです。