展示品 A会場
平面図に戻る
次を見る
北大王墓誌 漢文面とその内容
■漢字
南

パネル画像
▲北大王墓誌 漢字面
 クリックで全体を
 表示します
 北大王墓誌は、現在の中国内蒙古自治区赤峰市で発見された、契丹国(遼朝)時代の墓誌(墓碑)です。
 墓誌は、円首形(上部が丸くなっている形)と長方形の2つの石から構成されています。前者は、後者よりひとまわり小さく、一面に漢字で「北大王墓誌」の5字が縦書きで彫られていて、その背面には漢文墓誌(漢字による墓誌。21行・ 510字前後)があります。後者には、契丹文墓誌(契丹大字による墓誌。27行・ 780字前後)が彫られています。漢文墓誌は、やや横長のしっかりとした書体であり、字間・行間がほぼ均一で、石の形状にあわせて文字を配列しているなど、練られた文章といえます。 
 漢文墓誌によれば、墓主は万辛といい、契丹国の皇族の出自とみられます。皇族の姓である「耶律」を付して、「耶律万辛」ともよばれます。重熙10年(1041年)2月15日の夜、上京臨少府南の私地において69歳で死去し、同じ年の10月8日に埋葬されました。万辛が没したときの官名である「北大王」とは、別名を北院大王ともいい、契丹の皇族が属した部族である迭剌部長に由来する高官です。強力な兵員を支配下に置いて、契丹の朝廷において極めて重要な職位でした。
 万辛には先妻と後妻がいましたが、先妻は16歳、後妻は38歳でそれぞれ早世しました。墓誌からは、2人の妻が「乙林免」であったことがわかります。「乙林免」は、おそらく大王の夫人に送る称号であり、もとは契丹語であったと考えられています。
 漢文墓誌は、契丹文墓誌を解読する手がかりとなりますが、両者は全くの同内容ではなく、単純に対照・対訳をすることはできません。漢文墓誌中に、「大王の入仕年月、歴宦官姿(官歴)は、並びに契丹字内に次ぐ」とあり、大王の経歴については、漢文墓誌は省略しており、契丹文墓誌に記されていることがわかります。