概要


プリス・ダヴェンヌの生涯

 プリス・ダヴェンヌ (Achille Constant Théodore Émile PRISSE D'AVENNES) は、一八〇七年、フランス北部のベルギー国境の町、アヴェンヌ・シュル・エルプ(Avesnes-sur-Helpe)で、十七世紀に英国から亡命したウェールズ貴族の家系に生まれました。王立工芸院で建築を学んで卒業しましたが、一八二六年十九歳で独立戦争中のギリシアで義勇軍に参加しました。しかし翌年エジプトに渡り、ムハンマド・アリー政府に水利技師として仕えるようになりました。さらに歩兵学校の築城術の教官も務めましたが、一八三六年には辞職してエジプト学を志し、各地で遺跡の調査をしました。

 一八三八年にはルクソールに居を定め、四十三年にかけて古代エジプトの都であったテーベ一帯の遺跡の発掘に携わりました。アラビア語を流暢に話す彼は、ムスリムと同じ服装をして「イドリース・エフェンディ」と名乗り、すっかり現地に溶け込んでいました。また建築を学んだおかげで、遺跡のレリーフやヒエログリフを正確にスケッチすることができました。

 その一方で、一八四一年から彼の助手を務めた英国ウェールズ出身のジョージ・ロイド(George Lloyd,1815-43) の勧めにより、『オリエント画集』のもとになった当時の人々の姿を描き始めるようになっていました。展示されている生き生きとした人物画の数々は、ナイル流域の人々の暮らしに直接分け入ることができたプリス・ダヴェンヌをして、はじめて描くことができたものです。

 一八四三年にロイドを事故で失ったプリス・ダヴェンヌは、翌一八四四年カルナック神殿の「祖先の間」や長らく世界最古の文書とされた「プリス・パピルス」を携えて祖国フランスに帰り、コレクションをルーヴル美術館に寄贈しました。一八四八年に亡友ロイドに捧げた『オリエント画集』を刊行したほか、古代エジプト美術、アラブ・イスラーム美術の大著を残して一八七九年パリで亡くなりました。