ベトナムホーチミン6Field+ 2009 07 no.2ベトナム・ホーチミン市の華人居住地区(第5郡から西の第6郡を望む)。 ベトナム人研究者とのやりとりのなかで、「ホア・ヌン」(ヌン族の華人)というベトナム語で紹介された人々について、その暮らしぶりをスケッチしてみたい。 ホア・ヌンはヌン族だと考えられることが多いが、その言語と文化を見ると、じつは華人のなかの一グループとも言える。 ベトナム社会主義共和国の公定民族のひとつである「ヌン族」は、オーストロ・アジア語族のタイー・タイ語系に分類される。主にベトナム北部に居住し、隣接する中華人民共和国の「壮族」(チワン族)と同系統である。いっぽう、「華人」にあたる民族は、ベトナムでは「ホア族」となり、シナ・チベット語族の漢語系に分類される。しかし南部のホーチミン市でホア・ヌンの人々と言葉を交わすなかで、「ヌン族」と「ホア族」のイメージが混じり合って、私の目の前に浮かびあがってきた。 2005年8月、ホーチミン市郊外の「護国観音廟」を訪れた。「護国観音廟」という名称で観音を祀ることが、ホア・ヌンの特徴だ。ちょうど盂う蘭ら盆ぼんの時期で、多くの人々が忙しく出入りをしていた。私は広東語を使って、祭祀を行っている人々について尋ねてみた。広東語は、中国広東省から広西チワン族自治区にかけて広く通用する中国語の一方言である。 私の尋ねた人のなかに広東語のわからない人はなく、自分たちが話している言葉は広東語だと明言する人もいた。 民族名について、ある人は「客はつ家か人じん」だと名乗った。「客家」は、黄河流域から南下してきたという伝承をもち、中国各地に分布する漢民族のグループである。またある人は、自分は「客家人」ではなく「広こう府ふ人じん」だと言った。「広府人」は、広東省広州市の近辺に祖籍地をもつ漢民族のグループである。 当然のことながら、自分たちは「儂のう族ぞく」(ヌン族のこと)だと、はっきり説明する人もいた。自分を「防城客家」〔広東省防城県、現在の広西チワン族自治区防城港市に祖籍をもつ客家〕だと説明したある男性は、さらに「儂族」という言葉について興味深い説明を加えた。 「自分たちがもともといたところは中越の国境で、山地の田舎だ。『儂族』とか、『族』というのは少数民族に対する言い方で、『山胞人』〔中部高原の少数民族〕を含んでいる。ベトナム・ホーチミン市のヌン族の華人の「護国観音廟」。ベトナム・ホーチミン市のヌン族の華人の「護国観音廟」で行われる盂蘭盆の儀礼。『京キン族』〔ベトナムの多数派民族、ヴェト族とも言う〕とか、田舎に住んでいる人に対する言い方。自分たちは『防城人』。」 日本語でも「××族」という言い方で、「文明化されていない人々」という意味を込めることがある。日本に住む多数派民族は、自分たちのことを「日本人」と言い、「日本族」とは言わない。同じようなニュアンスが中国語にもある。ホーチミン市のホア・ヌンは、今や山村や農村に住んではいないので、「ヌン族」ではなく「華人」(ホーチミン市では「唐人」という自称もよく使われる)と呼んでほしいようだ。 ホア・ヌンの多くは、中越国境にあるハイニン省(旧クァンニン省)にいた人々か、その子孫だ。この国境地域では、古くから居住していたタイ語系統の言語を話す民族と、広府人や客家人など後から南下してきた漢民族の複数のグループとが混じり合い、華人らしさを身につけたヌン族、あるいはヌン族のなかに混じって住む華人がいたと考えられる。 そして、フランス植民地政府がつくったヌン族自治地域に住む人々のうち、共産党政権を嫌った人々が、黄亞生(ヴォン・アー・サン)将軍に率いられ、1954年に南ベトナム(当時のベトナム共和国)へと移住した。前述のホーチミン市郊外の護国観音廟も、ハイニン省から中部のソンマウへ移された観音廟を、さらに分祀するかたちで1972年に建てられた。 当時、このあたりは全くの空き地で、治安が悪いとされて近づく人々も少なく、インド系住民が牛を飼って牛乳を出荷するような場所だったらしい。しかし1980年代以降、ホーチミン市郊外の都市化が進み、今では周囲にたくさんの家が立ち並ぶようになった。ホア・ヌンのなかには、不動産の賃貸料を集めるだけで生活できるような人も出てきている。 ヌン族を意味する「儂」は、もともと農民という意味である。ベトナム北部を離れたホア・ヌンのなかには、サイゴン(現在のホーチミン市)に来てから都会的な生活を始めた人々もいた。中国語の教育を受け、華人の社会活動に参加するようにもなった。ヌン族に含まれていた彼らは、このようにして「華人」としての輪郭をあらわしていったのだろう。ベトナム・ホーチミン市のヌン族の華人芹澤知広 せりざわ さとひろ / 奈良大学、元AA研共同研究員
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