44国道1号線*フエ南シナ海Field+ 2009 07 no.2調査地清福と、中国系移民がフエに来住するようになった主な経路と根拠地。 ふつう華僑のイメージは、貧窮にあえぐ華人庶民が中国で生活に追いつめられ、家族を残して故郷を離れ、数々の辛苦をなめながら奮闘の末に一財産を築き上げ、めでたく帰郷、一族の祠堂や学校などのために巨額の寄付をして錦を飾るというサクセスストーリーと結びついている。しかし、こうした一握りの成功者の陰に何百倍、何千倍もの人々が、移住地でも困窮したまま故郷に帰るだけの財を築けず現地で一生を終えたり、現地社会の成員となることを選択したりしていることを忘れてはならない。現地では、こうした厳しい状況に対処するため、父系親族の集まる「宗親会」や、広東や福建など出身地を共にする人々の組織である幇バンを組織し、会館や共同墓地をもうけ、中国系であることの証しとし、移住先社会での生活を送る者も多い。かれらは、例えば店の表示の一部に漢字を使うなど「中華」を旗印に背負っているため目につきやすく、多くの研究がなされている。しかし、一方では、中国系の子孫であっても、こうした活動に参加することなく、静かに現地社会に溶け込んでゆく者も居る。通常、これらの者は目立たない上、時間が経つほど一層現地人との見分けがつきにくくなる。ここでは、ベトナム最後の王朝の都であったフエでの調査を通して、こうしたステレオタイプ化していない方の例を紹介し、その意味を考えてみたい。 フエでは、この6年あまりベトナム人口の8割を超える主要民族であるキン族農村を主な対象として調査を続けているが、サブテーマとして、比較的最近(2・3代前)に来住した華人および、17世紀明末に清に服するのを嫌って避難してやってきた明ミン郷フオンと称される人々を対象に、中国系移民の来た道沿いにその名残りが残っていないかどうかに関心をもって調査を進めてきた。主要調査村の清タインフオツク福は、南シナ海に面する順安海口から香江を通ってフエに通じる水路の要所のひとつであったから、かれらの生活の痕跡があるかも知れないと、調査初期には、中国系移民についての口碑や墓石まで注意して探し回ったが、一向それらしいものが見あたらず、大部分の祖先は16世紀北部の清化からやってきた純粋なキン族の村であり、かつて中国系移民が居住していた形跡は無いと結論せざるを得なかった。 ところが、清福近くの金キム堆ドイ村をたまたま通り過ぎた時、村の寺門両脇に天后宮と関聖祠という2つの小祠があるのが目についた。「天后」と言えば、「媽マ祖ソ」とも称され、沖縄の那覇にもあるように、中国福建起源の霊験あらたかな女神として、台湾でも最も人気のある神様である。関公のほうは、義を重んずる三国志の英雄として華人系だけなくキン族の間でも人気があり、必ずしも華人的特徴を示すとは限らないが、天后は、キン族にはほとんど受容されず華人系だけで祀られている。フエの明郷も清タインハー河社に天后を祭る廟を建て、かれらのアイデンティティの拠り所としてきた。 ついに歴史文書に記録されていない、中国系移住過程の拠点を探し出せたかと、喜んで尋ねてみると、確かにこの寺の以前の住持は中国福建省より渡来した商人の息子で、この2小祠は移住した当人の代に配置されたが、それほど古い時代ではなく、19世紀のことだとわかった。華人コロニーが、この寺を中心として存在していたという推測はあえなく潰れたが、その際、この華人住持の息子の一人が、清福村の寺の住持として招かれていったということを聞いて2km金堆村香江清福村天后宮清河褒栄芝陵街順化禁城東巴市順安海口御屏山フエベトナム静かに溶けていった華人の末裔末成道男すえなり みちお / 東洋文庫研究員、元AA研共同研究員
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