3Field+ 2009 07 no.2片岡 樹末成道男三尾裕子菅谷成子芹澤知広中西裕二貞好康志 ところが、その答えは、上記の想像とは異なることになった。冒頭で紹介した廟は、華人の廟ではなく、ベトナム人になることを選択し、ベトナムの阮グエン朝(1802〜1945年)によって「明ミンフオン郷」と分類された中国系移民の末裔のための廟となった。明の遺臣やその子孫たちは、おそらく、時間が経つにつれ、明の復興が実現困難だと感じたのか、ベトナムの風俗習慣、言語を受け入れ、多くの人材がベトナムの科挙を通して、官吏に登用された。また、19世紀後半以降の大量の中国系移民の中にも、現赤嶺 淳は中国の皇帝の象徴なので、「龍飛」や「龍集」は、海外に飛んだ亡命皇帝や義士たちの雲の上での集結を暗示しているようでもある。しかし、ホイアンでは、彼らは結局、「龍飛」「龍集」の由来伝承とともに、華人としての意識を手放した。マラッカでも、「ババ・チャイニーズ」と呼ばれる人々が現地化し、中国とマレーの文化を融合させた独特な文化を生み出した。「龍飛」の魂は、はるかかなたに飛び立って、子孫たちの中には、現地社会に融合した魂が育まれたのである。市川 哲した」と述べたのは、架空の年号では、碑文の西暦年を確定させることができないためである。しかも、興味深いのは、「龍飛」は、ホイアンだけではなく、南部のホーチミン市や、マレーシアのマラッカ(写真3)、インドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)にもあったという。また、「龍飛」以外に「龍集」(写真4)などの年号も使われた。つまり、同志は、東南アジアの各地に散在しながらも、「龍飛」「龍集」を旗印にして、明の遺臣として巻き返しの日の到来を念じあっていた、というわけだ。 こう考えてくると、義に篤い人たちの気概に触れたような気がして、彼らのその後が知りたくなる。散らばった人たち同士は、どうやって連絡を取り合い、同志であることを確認したのか、密かに示し合わせて決起しなかったのか、その後、彼らの志は受け継がれ、近代の中国革命における海外の中国系の支援となって結実したのか……。4 ホーチミン市の「明郷嘉誠堂」内にある「龍集」の年号の入った額。地に定着し明郷になることを選択した人が増え、もともとの明の遺臣の子孫のほうが絶対的少数になってしまった。明郷の子孫は、中国出身であるという歴史伝承を伝えていても、文化的にはベトナムの影響を強く受けている(写真5)。私が彼らに「龍飛」や「龍集」の由来を尋ねても、陳先生の解釈を知っている人は殆どいなかった。むしろ、中国の歴史とは関係のない解釈が聞かれることもあった。 こうして、「龍飛」の謎は解き明かされぬまま闇に消えようとしている。「龍」5 漢字が読めなくなった「明郷」の祖先祭祀のための祭壇。位牌がベトナム語表記になっている。 中国系移民
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