フィールドプラス no.2
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ホイアン2Field+ 2009 07 no.21 澄漢宮の「龍飛」という年号の入った碑文。2 ホイアンの福建会館の額。この特集は、平成15年度から19年度にかけて行われた共同研究プロジェクト「中国系移民の土着化/クレオール化/華人化の人類学的研究」の成果である。特集の中では、移住後も主に文化的な意味で中国系としての意識を維持している人を「華人」とし、かつての「華僑」もこの中に含めた。また、「華人」としての意識を失い、移住先の社会に溶け込んだ人をも含めた総称として、「中国系移民」という用語を使った。 「『龍飛歳次癸卯年』の碑文って、あの『龍飛』?」私は、ベトナム中部の町ホイアンの「澄漢宮」という廟で、「龍飛」という年号のついた碑文(写真1)を見つけた時、「ついにかつて読んだことのある陳ちんけいわ荊和先生の論文の中にあった『龍飛』の実物を見た!」と心躍ると3 マラッカ「青雲亭」内にある「龍飛」の年号の入った碑文。写真1,2,5 撮影:澤田英夫同時に「これじゃ、西暦何年かわからない」という困惑にぶつかった。 海外の中国系移民が神を祀っている廟や、彼らの集まる場所としての会館の多くには、その縁起を記した石碑や、建立祝いや改築祝いなどに贈られる扁へん額がく(横額)が残されており、それらには、中国の年号が記されている。ホイアンでは、複数の会館に残されている碑文や横額の多くに、皇帝名を冠した年号(例えば、「光緒庚子」;写真2)が記載されていて、西暦年への換算も簡単だ。つまり、中国系移民やその子孫の多くは、長らく、海外に居住しつつも故郷の政府の定める時間の枠組みに従ってきた。その感覚は、あまり意識していないとしても、今日の私たちが、日本の時間の枠組みに従って「平成×年」という年号を使っていることとほぼ同じことだ。 そこで、問題なのは、「光緒帝」は存在しても、少なくとも17世紀以降、「龍飛帝」が中国の正史の中に登場したことはない点だ。ベトナムにも同名の皇帝は見つからない。そうなると、当該碑文の作者は、中国でもベトナムでもない別種の政治的権威への帰属意識を持っていたと考えざるを得ない。 では、いったいその権威とは何か。その一つの答えが、上述の陳先生が提起した次の解釈だ。すなわち、「龍飛」は、明(1368〜1644年)が清(1644〜1912年)に打倒された時、いつの日か明を復興させることを夢見て、一時的に東南アジアに避難した明朝の遺臣が使用した年号だ、というものだ。だから、彼らは、滅亡した明の皇帝の代わりに、「龍飛」という皇帝とその年号を発明した、というのである。冒頭で「困惑ベトナム責任編集 三尾裕子巻頭特集 「華人」に皆さんは、どんなイメージを重ねるだろうか? 横浜や神戸には、整備された中華街とおいしい中華料理があり、日本にいながら華麗な中華世界を垣間見ることができる。歴史に興味があれば、19世紀の後半以降、裸一貫で飛び出した男たちが、海外で労働者となり、苦労したことをご存知かもしれない。彼らの中には、その後商売などで成功し、故郷に錦を飾った人や、現地国家の経済の中枢を掌握した人もいる。20世紀前半には、抗日戦争や、新中国建設のための革命に支援をする人も出た。1980年代に入って、中国が経済の改革開放を本格化させてからは、高い学力と経済力を兼ね備えた新世代の移民が、世界経済のけん引役として活躍するようになった。しかし、こうした成功した「華人」は、実は移民のうちのほんの一握りでしかない。彼らの陰には、現地女性と結婚し、現地の文化や言語を自然に取り入れ、その社会に溶け込んでいった多くの人々がいる。彼らは、「中国系移民」やその子孫であるが、いつの間にか自らを中国系と意識する「華人」ではなくなっていった。本特集では、読者になじみの「華人」の姿だけではなく、現地の人々との交流の中で土着化していった中国系移民の末裔の姿を紹介したい。ドラゴンは飛んで行った 現地社会へ溶け込んだ中国系移民 三尾裕子 みお ゆうこ/ AA研 フュージョンする

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