知行の相続を請願する書類を要約した梗概。上部右隅にはアブデュルハミト1世(在位1774〜1789年)の直筆により、請願を承認する旨が金粉の混じった黒インクで記されている。1906年イスタンブル刊『日本のアルファベット』より。「いろは」の発音をさまざまな文字で説明している。右からトルコ語、日本語、フランス語、ギリシア語、アルメニア語。オスマン朝では多様な言語と文字が使われていた。29Field+ 2009 07 no.2【髙松】 ふつう文書館を訪れる研究者は「自分のテーマに関する文書が何かないかなあ」と探すのでしょうが、私は「この案件についてこの日付のこれこれの様式で書かれた文書があるはずだ」というふうに文書を探して、ひたすら画像を集めるということをしています。文書というのは単独で作られるのではなく、ひとつの案件について複数の様式の文書が一定の手順をおって作成されますから、既に発見した文書を分析して、同じ案件について別の様式の文書が存在しているはずだと仮説を立てるわけです。ただ実際には散逸してしまっていることが多いので、なかなかぴったりのものが見つかる幸運にはあえません。カタログも部分的にあるにはあるのですが、不十分なのでとにかくたくさん請求して探します。【太田】 文書館ではほかにどんな苦労がありますか。【髙松】 オスマン朝は19世紀半ばまで文書の用紙を主にイタリアから輸入していたのですが、当時のイタリアの紙には業者や年代によって異なる「透かし」が入っていて、そのデザインから用紙の製造年代をほぼ特定できるんです。文書に日付がない場合、これが年代を知るのに重要な手掛かりになります。ただ透かしは写真に写りませんので、私はいつも文書館の窓際に座って「陽光紙背に徹す」とばかり文書を空中にかざして、透かしをせっせと手で写し取るという怪しい(笑)作業をしています。ところが最近は電子化が進んでパソコン上の画像でしか見せてくれない文書が増えたので、透かしがわからなくなってしまったのが残念です。保存のことを考えると仕方がないのですが。「歴史」を伝えるアーカイブズ【太田】 古文書学とともに、アーカイブズ学を髙松さんは専門とされていますが、アーカイブズ学とはどういったものですか。【髙松】 「アーカイブズ」とは、組織や個人が作成したり受け取ったりして保存してきた記録をさしますが、それらの保存・利用に役立つように、アーカイブズの成り立ち・伝来や管理の方法などについて研究するのがアーカイブズ学です。もっともオスマン文書館のように、こうした記録を保存する機関のこともアーカイブズと呼ばれます。アーカイブズ学の対象は歴史的な古文書だけではなく、現代の役所の公文書や個人の書類もそうですし、紙に限らず最近では電子媒体記録も含まれます。私自身の研究対象は、オスマン朝中央政府のアーカイブズですが。【太田】 髙松さんは、もともとアーカイブズ学に関心があったのですか。【髙松】 いいえ、トルコに留学するまでそんな学問があるとはちっとも知りませんでした。実は私のついた指導教官がたまたまアーカイブズ学科の主任だったのですが、アーカイブズ学とは何であるのか理解できるようになったのは帰国した後でした。最初はオスマン文書館を利用するのに整理・分類の原則がきちんとわからなければと思って勉強を始めたのですが、そのうち現在オスマン文書館に収蔵されている文書がどんな経緯で収められたのか、またそれらの文書が実際に使用された当時どのように保管されていたのかを知ることが、文書の機能や作成手順を考えるうえで不可欠だとわかって、専門的に研究するようになったのです。【太田】 アーカイブズ学というのは、あまり耳にしたことがありませんが。【髙松】 そうかもしれませんね。6年前にようやく学会が設立されたくらいですから、この分野では日本は残念ながら「後進国」です。そもそもアーカイブズが後世に伝えるべき人類の共有財産であるという考えが、社会にあまり根付いていません。最近の薬害問題などを見ても明らかですが、日本の公文書保存・管理のあり方には多くの問題があります。福田前首相は、アーカイブズの整備に熱心だったのですが。ところがオスマン朝の役所では、18世紀には既に文書は説明責任を果たすために保存すべきものと考えられていたのです。今日オスマン朝の文書が膨大に残っているのは、そうした認識のおかげもあると思います。【太田】 まさしく文書のあり方は、その国の政治や文化の一面を映す鏡ですね。どうもありがとうございました。
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