教とほぼ同じ時期にエチオピア王国内で布教活動を展開し、この地の住民をローマ・カトリックに改宗させようとした。宣教師たちはススネヨス(在位1607〜1632年)という君主を改宗に導くなどの成功をおさめたものの、最終的にはエチオピア王国から追放されてしまう。その経緯について彼らは報告書や著作の中で多くの紙数を費やして説明している。それらを分析すると、イエズス会のエチオピア王国内における成功と失敗がリテラシーと密接に結びついていたことが判明する。 まず従来ススネヨスの改宗については、オロモの脅威にさらされていたススネヨスがインドに進出していたポルトガルの軍事支援を得ることを期待して行ったものであると説明されてきた。しかしイエズス会士の報告を見ると、ススネヨスだけではなくエチオピア教会の聖職者の中にも、イエズス会士の布教に惹かれてローマ・カトリックに改宗した者が少なからず存在したことが窺える。イエズス会士たちは当時ヨーロッパで好評を博していた教理解説書などを利用した布教方法をエチオピア王国内でも採用した。読み書きをする能力があったエチオピア王国内の知識人の一部は、イエズス会士の布教方法の優れた点を理解したがゆえにローマ・カトリックへの改宗を進んで選択したと考えられる。 ススネヨスはローマ・カトリックに改宗し、王国内の住人にも改宗することを命じた。しかしその治世末に反乱が頻発すると、彼はこれらの反乱を鎮めた後に親ローマ・カトリック政策を撤回し、その直後に他界する。代わって即位した彼の息子ファシラダス(在位1632〜1667年)はすぐにイエズス会士たちを追放し、ここにエチオピア王国内におけるイエズス会布教は失敗に終わることになった。従来ススネヨスが宗教政策を変更した要因としては、民衆の反発が強かったことが挙げられてきた。しかし注目されるのは、ススネヨスがイエズス会士たちに書き送った書簡の中で「ローマ・カトリック信仰に非はないものの、人々はそれを理解しない。」と述べていること、そして彼の治世末の反乱を主導したのが、学識ではなく禁欲などによって民衆の尊敬を集めていた隠者と読み書きができない「普通の修道士」であったことである。これらの隠者や修道士たちをイエズス会のリテラシーを活用した布教方法で改宗させることが極めて困難であることを悟ったがゆえに、ススネヨスはローマ・カトリックの布教を放棄せざるをえなかったと考えられる(2)。 私の研究の第一の目的は、ソロモン朝エチオピア王国史の空白を埋め、サブサハラ・アフリカの歴史の一端を解明することである。しかし文字社会と無文字社会の狭間に位置したこの王国の歴史研究を進める上で遭遇するこれまで述べてきたような事例は、文字を用いて何かを書くという行為とリテラシーの関係、あるいは何かを敬い信じるという行為とリテラシーの関係といった現代にも通じる深遠な問題を私に投げかけてくる。25Field+ 2009 07 no.2タナ湖近くの教会。十字架を手にするエチオピア教会の聖職者。教会内のゲエズ語文献。(1)詳しくは、拙稿「ソロモン朝後期の北部エチオピアに於ける歴史叙述の特色」(『オリエント』第49巻第2号、182-199頁、2007年)を参照のこと。(2)詳しくは、拙稿「イエズス会北部エチオピア布教─識字能力の観点から─」(川村信三編『超領域交流史の試み─ザビエルに続くパイオニアたち─』上智大学出版会、182-204頁、2009年)を参照のこと。教会内の宗教画。
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