青ナイル白ナイル アフリカ大陸の中でサハラ砂漠以南に位置する地域をサブサハラ・アフリカと呼ぶ。この地域には文字記録、特にヨーロッパ人の到来以前の記録が少なく、歴史研究が困難であることはよく知られている。その中で私が研究対象としている北部エチオピアのソロモン朝エチオピア王国は、住人が書き残した記録などから歴史を探ることができるという点で稀有な存在である。しかし王国内で読み書きができる人々は少数であり、このことは王国の歴史と文化に重大な影響を与えた。ここでは私が行っているソロモン朝エチオピア王国史研究の中で、リテラシー(読み書き能力)に関係する2つの研究の概要を紹介したい。歴史叙述とリテラシー ソロモン朝エチオピア王国は1270年に北部エチオピアに成立した。王朝名は君主たちが古代イスラエルのソロモン王の末裔と称したことに由来する。この王国の主体となったのはアムハラ、ティグレという2つの民族であり、彼らはエチオピア教会の教えを信奉するキリスト教徒であった。王国は成立後エチオピア高原で版図を広げ、15世紀に最盛期を迎える。しかし16世紀に南方から攻め寄せたオロモと呼ばれる民族によって王国は甚大な被害を受け、その版図は半分程度に縮小した。しかしこの段階で王国は崩壊せず、ソロモン朝の君主がその座を奪われるのは1855年になってからであった。 以上のような歴史を知ることができるのは、ゲエズ語と呼ばれる文語で書かれた歴史叙述が残されているためである。しかしアムハラ語が主要な口語として用いられていたエチオピア王国では、貴族とエチオピア教会の聖職者の一部しかゲエズ語で書かれた文献の内容を理解できなかった。そして著述活動を担ったのが主にエチオピア教会の聖職者であったことは、執筆あるいは書写される文献が教会で使用されるキリスト教関連文献に偏るという結果をもたらし、さらには歴史叙述の内容にさえ影響を及ぼした。 ここで興味深いエピソードを紹介しよう。16世紀末オロモによって甚大な被害を受けていたエチオピア王国において、バフレイという名のエチオピア教会の聖職者がオロモに関する文献を著した。彼の執筆目的はオロモがキリスト教徒を圧倒している理由を明らかにすることであった。王国の版図を半分に縮小させるほどの被害を与えたオロモについてこのような書物を著すことは、現代の我々からすれば至極当然のことのように思える。しかしバフレイの記述からは、彼がオロモに関する書物を著すことを躊躇していたことが伝わってくる。その理由を解き明かすべくバフレイの著作や同時代の君主の年代記の記述を分析すると、当時王国内において書物を著すことの主な目的はキリスト教の神を賛美することであり、キリスト教徒に災いをもたらした「蛮族」の歴史を書くようなことは躊躇せざるをえなかったことがわかる(1)。イエズス会布教とリテラシー 読み書き能力が社会の一部の人々に限られていることは、時として歴史の展開にも影響を与えた。イエズス会は1557年から1634年という日本布■ アムハラ・ティグレ居住地■ オロモ居住地Field+ 2009 07 no.2ヴィクトリア湖アクスムゴンダールラリベラタナ湖アディスアベバハラルトゥルカナ湖ケニア文字社会と無文字社会の狭間に位置したエチオピアのキリスト教王国。その歴史を研究することは現代にも通じる深遠な問題を投げかけてくる。ソロモン朝エチオピア王国の都であったゴンダール。24エチオピアスーダンエチオピアソマリア雲上の修道院ダブラ・ビザン。現在のエチオピアとその周辺エリトリアジブチ石川博樹 いしかわ ひろき/AA研フロンティア文字社会と無文字社会の狭間にて
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