フィールドプラス no.2
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観察とことばをつなぐバナナの味を知る17Field+ 2009 07 no.2カンパラと、しばしば「バナナについて調べたいと言うと、人びとはみな親切にしてくれるので調査がしやすい」という話で盛り上がる。そんな単純な話などあるはずがない、とは思いつつも、バナナとのかかわりは人を寛容にさせていく、という思いが頭の片隅から離れない。 生まれて初めてマトケを食べたときのことは忘れられない。ある晴れた日の朝、フィールドワーカーの先輩に連れられて、ウガンダの首都カンパラで一番大きなマーケットに入り、人また人でごったがえす喧噪の中をかき分けて食堂街に行った。調理中で高揚しているおばさんに、「マトケ!」と言い放ってみた。一人で抱えるのがやっとというほど大きなアルミの鍋に、バナナの葉で作られた袋が入っていて、その中から黄色いねっとりした金時のようなものが取り出され皿に山盛りに盛られてきた。これをスプーンで食べてもよいし、手で食べてもよいらしい。右手の指を使って食べることにした。ねっとりとした質感があり、親指と人差指にへばりついて火傷しそうなほどに熱い。この固まりを慎重に口に運ぶ。すると、甘くも渋くもなく、意外とマイルドでいけるではないか。舌触りは、マッシュポテトをさらになめらかにした感じであり、日本のバナナからは想像もつかないものであった。マトケに付けて食べる落花生のソースも香ばしい。うまいうまいと食べていたら、いつの間にかお皿が空になり、知らない間に胃ももたれてしまっていた。ふとまわりを見渡してみると、他の客はみな静かにマトケを食べている。かれらの日常と私の驚きのあまりの温度差に笑いが込み上げてきた。 のちに首都から農村に移動し、農家に居候させてもらい、食事も家の人と一緒にするようになった。すると、マトケの味が村と首都カンパラで異なることが徐々に分かってきた。村のマトケは首都のマトケのような水っぽさがなく粘り気が高い。村人らは、総じて村のマトケがより美味しいと感じており、カンパラでは不味くて食べられないと説明する人がいるほどである。数ヶ月間村に滞在する中で私も舌が村のマトケに慣れてきて、首都ではあまりマトケを美味しく感じなくなってきた。農村に長く滞在することで感覚も次第にかれらに近づいていることを知り、うれしくなった。 食べものや調理のプロセスをどのように記載するかは、民族植物学において常に悩むところである。例えば、マトケの調理の際に大量のバナナの葉が用いられ、調理の後に葉が台所の隅に一見無造作に重ねられている様子は、普段みられる台所の光景である。しかし、はじめはこの壮観を何と表現してよいか分からず、単に「バナナの葉を○枚も使って蒸している」とノートに書くだけにとどまっていた。ここでのバナナの葉は形状が複雑で、図として描くこともままならない。 台所にはりついてマトケの調理を数週間も観察し、家の人の暇を見つけて質問していくうちに、バナナを直接包むための葉、蒸すときにそれを覆う葉、蒸すときに一番外側を囲むための葉、配膳の際に敷く葉などの別に葉が細かく呼び分けられ、それぞれに適する性質が異なることにようやく気づいてきた。袋を覆う葉は一部再利用されるが、それは仕方なくではなく、内部の密閉度を高めるために積極的におこなわれる行為であった。かれらの技術を知るたびに、かれらが用いることばへの追及も深まった。住居とホームガーデン。たくさんのバナナに囲まれて暮らす。サモサとともに軽食に出されるバナナ。炭火で焼いて供される。ビクトリア湖マトケに用いられるバナナの植物体。この地域には数十の品種がみられ、その多くがマトケ用である。さらに、技術やことばを知った上で味見してみることで、それらが実際の味にも影響していることが実感された。一度はっと気づくことで質問が可能になり、それをもとに観察することで、驚くような発見も次から次と出てきたのである。家の人からすると、調理はあまりに日常的なことなので、私がどんなことを知りたいのかに気づくのに長い時間がかかったそうである。結局、食のフィールドワークにおけるほとんどの時間は、体験・観察と質問の往復運動に向けられた。 味や香りについての調査はさらに困難で、いまだ納得がいかない感じを残している。私にとっての感覚と日本語の対応と、かれらの中での感覚と現地語の対応が異なるために、対話のための接点を見つけるのに苦労する。例えばかれらの言語ではいわゆる「甘い」と「美味しい」が同じ単語として表現される。私が「この食べ物甘いよね」と言おうとすると、「この食べ物美味しいよね」のような意味として伝わってしまうことがある。かれらの感覚の輪郭を掴むために、これからも試行錯誤はつづいていく。ウガンダ

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