フィールドプラス no.2
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ガラパゴス諸島13Field+ 2009 07 no.2メキシコエクアドル定より1ヶ月も早く操業をうちきった。このことに腹をたてた漁民たちは、生態学研究の殿堂であるダーウィン研究所を封鎖し、環境保護のシンボルであるゾウガメを(亀)質とし、殺戮をほのめかすことにより、政府をはじめ世界の環境主義者たちに抗議したのである。これが、ナマコ戦争の発端であるが、その後も漁民の蜂起は度々くりかえされており、その度にゾウガメは殺戮の危機に瀕している。 もともとガラパゴスにナマコを食する文化がなかった以上、だれかがもちこんだものとなる。「ナマコ戦争」を報じるインターネットをはじめとした各種のメディアでは、その張本人は単に「アジア人」とされている。環境保護運動をあおるには、その程度のくくりでも有効なのかもしれないが、「歴史」として正視するには、そんな大きなくくりは無意味である。アダムとイブではないが、わたしは、その人物の手がかりをさがしていた。そんな矢先、間接的ではあるが、フスクス開発史を知る人物と出会う機会をえたのが、冒頭の発言であった。 当時、お父さん(以下、便宜的に乙とする)の会社を手伝っていた甲さんの話を総合すると次のようなことになる。1985年9月のプラザ合意をうけて円高が決定的となった。それをうけて乙さんは他社にさきがけて北米大陸でウニの買いつけをおこなった。すでに乙さんの工場では、北海道中からウニを買いつけていたが、女工さんらを通年で雇用するにはおよばなかった。通年操業させる方策を考えあぐねていた際にキャッチした円高ニュースに飛びついた、というのである。北米でビジネスを開始するにあたり、乙さんは台湾系のビジネスマンと協働することにした。そうこうするうちに、そのパートナーがメキシコ産のナマコの加工を依頼してきた。実は、乙さんの会社は、ナマコも手がけていたのである。メキシコ産のナマコには中国北部市場で好まれるいぼがあったため、乙さんは、「いける」と直感し、ナマコを冷凍して輸入し、自社工場で加工し、自分の販売ルートを通じて台湾に輸出してみた。ウニのみならず、工場の通年操業に役立つと踏んだ乙さんは米大陸からのナマコの輸入を本格化させることを決意した。 1980年代なかば、という時期は重要である。1990年代以降に膨張する中国経済の揺籃期にあたるし、先述したように同時期、東南アジアでも日本でもナマコやフカヒレの需要が急増していたからである。また、1980年代のアメリカは、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる「双子の赤字」をかかえており、巨額な対日貿易赤字の解消が政治課題となっていた。そんな状況が一変する契機となったのがプラザ合意であった。同合意によって、貿易不均衡を是正するために円高・ドル安が誘導された結果、日本企業が海外に進出し、現地生産をおこなうという今日のビジネスモデルが誕生した。 日常生活の面でも変化が生じ、円高にまかせてわたしたちは世界中からさまざまな食料品を買いあさるようになった。このことに関して、『エビと日本人』(1988)のニューヨークの中華街で売られていたフスクス(キログラムあたり150ドル)。「厄瓜多尓深海刺参」とは、エクアドルの深海で獲れたナマコの意味である。乾燥ナマコの醤油煮込み料理。広東省広州市で。著者である村井吉敬は興味深い指摘をおこなっている。同書の刊行から20年ちかくたった続編『エビと日本人II』(2007)において、南米産のバナメイ種が病気に強いことから、世界中で養殖されている現状を紹介したうえで、その先鞭をつけたのは日本企業と組んだ台湾系の資本だとしているのである。 フスクスの場合も、エビのケースも、日本企業のパートナーとして活躍したのが台湾系資本であったことは偶然かもしれない。しかし、わたしたち日本の消費者は円高と同時期に切りあげられた台湾ドルを武器に海外に進出した台湾資本が、すでに拡散していた中国系住民・資本のネットワークとからみあいながら、日本をふくんだ水産物流通を変革・拡大したことを意識していた方がよいだろう。今後も、ほかの高級海産物について日本と華人企業家とのつながりを探っていくことが必要だろう。ガラパゴスのシンボルであるゾウガメ。現存する10種のゾウガメすべてが絶滅の危機に瀕しているわけではない。なかには人工繁殖や保護区での管理の結果、個体数がふえているものもある。フスクス生息地

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