ベトナム ホイアン歴史民族誌

Historical Ethnographyo of Hoi An, Vietnam

最終更新日 2003/3/20

所内メンバー

三尾裕子(代表者)
澤田英夫

 

所外メンバー

中西裕二(福岡大学人文学部教授)
中西桂子(日本民族学会)
Nguyen Thi Thanh Ha(立命館アジア太平洋大学四年)
今村宣勝(東京外国語大学地域文化研究科博士後期課程)

 

プロジェクトの目的

本プロジェクトでは、ベトナムの中部にあるホイアン(会安、Hoi An)という町の歴史、社会、文化を明らかにすることを目的としています。特に、現在ホイアン及びその近郊に残されている様々な文字史料を通して、ホイアンの歴史を再構成し、また現在ホイアンに住んでいる民族、及びそれぞれの民族の文化、社会などとのつながりを明らかにしてことを目指しています。

ホイアンは、15世紀から19世紀にかけてアジア諸地域あるいはヨーロッパとの交易の拠点として栄え、様々な民族の文化が融合した町です。紀元前数世紀から紀元後2世紀までは、「サーフィン文化」と呼ばれる稲作をともなう金属器文化が栄えました。また、2世紀から15世紀には中部ベトナムにチャンパ王国が築かれ、現在のホイアン一帯は、チャンパの海外貿易の拠点となりました。9世紀にはアラブ商人の手による書物の中にホイアン一帯のことが書き記され、沈香が輸出されていたようです。ホイアンの東海上のチャム島には、9世紀前後のものと思われるイスラーム陶器、イスラームガラス、また中国の越州窯青磁、長沙窯陶器などが出土しています。チャム王国が北方のキン族政権との抗争によって衰退すると、16世紀には広南阮氏が勢力を伸ばし、ホイアンを通じて国際貿易を強化していきました。

17世紀に入ると、日本も朱印船貿易を通じて、東南アジアに進出し、ホイアンやアユタヤなどに日本人町を作っていきました。このころには、中国人町も形成され、またオランダの商館もあったといわれています。ホイアンの日本人町の様子は、『茶屋新六交趾国貿易渡海図』という絵図にも描かれています。三丁にわたる町並みが形成され、日本から大型の帆船がやってきていたことがわかります。ただし、1635年に徳川幕府が鎖国政策をとると、ホイアンの日本人も次々にホイアンを離れ、残念なことに日本人町は徐々に衰退していきました。現在のホイアンにおいて日本人の足跡をたどることのできる場所は、何基かの日本人のものと伝えられた墳墓と、通称「日本橋」と呼ばれる「来遠橋」などに限られます。

日本人と入れ替わるようにホイアンにおいて勢力を増していったのは、中国人です。初期の中国人移民の中には、明清の交替期に、清への服属を拒んで海外に逃れ、復明の機会をうかがった明の忠臣が含まれていた、といわれています。「萃先堂」と呼ばれる会館の維新二年(1908年)の碑文には、このような人々がこの会館の創始者であったことが記されています。しかし、彼らやその子孫たちは、長い間ベトナムに居住していくにしたがって、次第にベトナム化していきました。阮朝も中国系の人々を同化させるために、「明郷」社と呼ばれるコミュニティを作り、中国系の人々にベトナム籍を取得させ、明郷社に集住させました。他方、明郷にはならなかった華人もおり、彼らは現在では「華族」というベトナムを構成する少数民族の一つとして位置付けられています。これらの華人の多くは、商人としてホイアンにやってきて、定住していった人々の子孫です。華人は、出身地別に「[邦+巾]」と呼ばれる自治組織を作りました。ホイアンには、広肇、福建、海南、潮州、嘉応の5つの[邦+巾]が作られ、まとまった人数のいない嘉応[邦+巾]以外は、会所である「会館」を建設しました。現在のホイアンの町並みの骨格を作ったのは、これらの明郷あるいは華族などの中国人たちです。

以上のことからもわかるように、ホイアンには、日本人や中国人、またヨーロッパの商人やミッショナリーも居住してきました。これらの人々の残した建造物や碑文、文書なども随所に発見する事が出来ます。本プロジェクトは、主に碑文や文書史料などを網羅的に収集することによって、ホイアンの成り立ちと発展を解明する出発点としたいと考えています。
 

平成14年度の現地調査

2003/02/25-2003/03/10

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