『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
2. 法と政治のしくみ ----- イスラーム体制は時代錯誤か
Q29: イランではいまだに「イスラーム革命」などと言っているのですか。

A29: はい、言っています。1996年2月1日のイスラーム革命17周年記念式典で、ラフサンジャーニー大統領(当時)は、79年2月1日のホメイニーのイランへの帰国を「イマームの降臨(フォルード)」と言い表し、神から慈雨が降ってきたこと(フォルード)に例えました。そして

「(神の慈雨は)圧政と高慢と迫害と暴虐の秋冬(国王の支配した時代を指す)を忘却にゆだね、この革命の春を私たちに贈り物としてくださいました。さらに私たちが一日一日と過ごす日ごとにこの慈愛は広まり、その影響をさらに明らかに示しつづけているのです」

と演説しました。また、ヴェラーヤティー外相(当時)は、イスラーム革命の最も重要な成果の一つは、2世紀ぶりの真の独立の回復にあった、と言っています。今日のイランの体制で革命の意義が否定されることはありませんが、革命の理念をどう政策に反映させるか、についてはこの16年間に紆余曲折がありました。

国民投票でイスラーム共和国となったイランは、対外的には「西でなく東でなく(西側=資本主義体制にも東側=共産・社会主義体制にもくみしないこと)」と「被抑圧者たち(モスタザフィーン)の解放」の二つのスローガンを軸として、全世界のイスラーム教徒の覚醒を求める方針を打ち出しました。これは「革命の輸出」と呼ばれ、イスラーム革命の波及を恐れる国々との間に摩擦を生じさせています。8年続いたイラン・イラク戦争の間、この外交方針は多少の制約を受けることはあっても、原則として維持されました。停戦を受け入れたのちにホメイニーが死去し、最高指導者ハーメネイーとラフサンジャーニー大統領の体制がかたまると、革命の輸出を否定しないまでも、戦争で受けた甚大な被害のために、国の再建がより重要視されるようになりました。湾岸戦争の前後には、かつて堕落した政権と非難したサウディアラビアを含む大半の近隣諸国との外交関係を回復しています。さらに97年には、予想を覆してハータミーが選挙で圧勝し、大統領に就任しました。ドイツ在住経験があり、より開放的な路線を訴えるハータミーの当選は、アメリカのメディアなどで大々的にとりあげられ、欧米諸国との関係改善が期待されています。

イラン・イスラーム革命は、ソ連のイデオロギー的影響や支援を受けない革命が成就したこと、先進国の支持を受けていた王政が武力的には劣位である勢力の前にあっけなく崩壊したこと、革命過程および革命後成立した政権においてイスラーム法学者の指導力が認められたこと、などの点においてそれまでの革命とは大きく異なっており、先進諸国にも、イスラーム諸国を含む第三世界にも大きな衝撃をもたらしました。ことにイスラームと政治イデオロギーの連関についてはこれを機に全世界が新たな認識を余儀なくされたのです。

中東・北アフリカのイスラーム主義者たちがイランの革命成就に新しい可能性を感じたことは確かでしょう。しかし、イスラーム的な正当性を主張するその後の諸々の武装闘争すべてにイランが直接関与している、との十分な証拠はありません。革命後のイランに関する報道には誤った先入観が反映されています。これについてE・W・サイードは『イスラム報道』という本のなかで、「強引な誇張」と「無知や隠しきれないイデオロギー的敵意から生じ誤用された婉曲表現」を、ジャーナリストたちがイラン報道で使った手口、として指摘しています。

アメリカを「大悪魔」と名指したり、イラン・イラク戦争で自爆して「殉教」する戦死者を大勢出したことなどを知ると、たしかにショックを受けますし、実際に革命後のイランで多くの悲惨な出来事が起きています。しかし「鬼畜米英」を唱え「特攻隊」を組織した経験のある日本人には、それらの一見「狂信的な」行為も、狂信者ではなくふつうの人々が支えていることを理解できるはずです。欧米モデルの産業化に物質的繁栄を見て、伝統文化に精神性を見る傾向は日本もイランも共通です。

イスラーム共和国樹立宣言は、生まれや民族的違いを問題にせず、人の高低が倫理と公正さによってのみ決められる政府の樹立をことほいでいます。イラン・イスラーム革命が平等と正義を求める運動の上に成立していたことをもっと広く知ってほしいものです。
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